前回の江戸ゾーンに続いて、今回は東京ゾーンの中の明治時代について綴っていこうと思います。個人的に興味津々なのは東京ゾーンで、江戸ゾーンよりも写真をたくさん撮影しました。
今回は気に入った写真を選定したにも関わらず、予想以上に写真過多となってしまいました。なので感想・余談を控えめです。
明治時代
明治東京の風俗
しかも配達は無料サービスでした。
スコットランド風の衣装は、チェック柄のキルトに羽飾りのついた帽子を斜めに被ったスタイルでした。大阪三越でも3年後に少年音楽隊を新設しています。
どこかの記事で、森永カフェの女給は可愛い子揃いで有名だったと読んだ記憶があります。確か戦前昭和頃のことだったと思います。そういえば、戦前女優の桑野通子も森永スイートガールをやってましたね。
和洋折衷
浮世絵で表現される和洋折衷は、独特な魅力があって惹きつけられます。展示されている錦絵の中で一番気に入りました。
新しい髪型
装身具等
石油ランプの灯り
新聞
下の画像は説明ボードの切り抜きです。「明治新聞雑誌文庫所蔵新聞目録」などより作成と書かれており、新聞社の所在地が示されています。
輸出用ラベル
群馬県にある県立日本絹の里という資料館で、明治初頭の生糸の輸出用ラベルを見たことがあります。ラベルに書かれた生産地の表記は「群馬県」ではなく「群馬国」と書かれていました。英語表記だったような気もしますが、こういった部分から当時の変遷がうかがえ、ジロジロ観察するのは実に面白いです。
博覧会
明治に子供時代を過ごした古老は、百貨店よりも観工場の方が楽しかったと回顧録で述べていました。観工場は、現在のショッピングモールのイメージが近いかもしれません。商店の他に休憩できる茶屋(甘味も食べれる)、ちょっとした庭園を備えている所もあり、深夜0時まで営業していた観工場もありました。
下の画像は博覧会の目録です。
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三越呉服店は明治32年から不定期に冊子が発行しており、最初の月刊誌だった「時好」を改題したものが「みつこしタイムス」です。
発行当初の4ヶ月は旬刊、10月から月刊化されました。
明治38年には、流行を生み出す組織として有識者たちを集め「流行会」を結成し、「みつこしタイムス」にその活動や講演会等の記事を掲載しています。
海外から見た明治日本
幕末から明治初期の庶民の仕事
子供の遊び
立身双六
明治は、男らしい蛮カラ学生が世間的に歓迎される傾向にあり、現代でも破天荒だったり、少し凶暴だと感じる話は多いです。
履物
下駄についてはこちらの記事でまとめています。
盛り場 浅草
竣工当時、凌雲閣は国を挙げて拍手を送られ、東京名物の一つに数えられました。浅草六区の北端に位置し、登閣料は大人6銭、軍人子供は半額。8階までは総煉瓦造りでエレベーターが通じており、11、12階は木造という構造でした。3階には当時珍しかった音楽休息所(料金2銭)があり、9階には新聞縦覧所、10階に休憩所(茶代を取られた)、11、12階には望遠鏡(1銭)が備え付けられていました。
2018年2月、凌雲閣の基礎部分が見つかったとニュースで知り、見学へ行った際に撮影した1枚です。記憶が定かではありませんが、掘り出した煉瓦はタイミングが合えば貰えた気がします。
この基礎を眺めながら、これが十二階段の煉瓦か〜としみじみした気持ちになりました。
そういえば、大正生まれの祖母が小学生の時に流行っていた歌?を教えてくれたことがあります。
♬十二階は怖い〜怖いはお化け〜お化けは消える〜消えるは電気〜電気は光る〜光るはオヤジの禿頭〜♬
今思うと、この十二階とは凌雲閣のことだったのでしょうね。この変な歌?どなたかご存じないでしょうか。
凌雲閣があった遊興系地区には、関東大震災前まで銘酒屋群が寄り集まっていました。前田豊『玉の井という街があった』に、凌雲閣とその周辺について書かれている箇所があります。少し長くなりますが、面白いので引用します。
銘酒屋群について
上記は七区劃に分けられたとありますが、花屋敷裏の遊興区を入れて七区ということでしょうか。
十二階について
関東大震災後、十二階は壊滅しその周辺の銘酒屋群も再建されることはありませんでした。その後ほとんどの銘酒屋は玉の井へ移り、戦後赤線の終焉まで営業が続きました。
まだ追加したい気持ちはありますが、徒に続けても仕方ないので明治時代はここで終わりにします。