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しばしのお別れ 江戸東京博物館その2

前回の江戸ゾーンに続いて、今回は東京ゾーンの中の明治時代について綴っていこうと思います。個人的に興味津々なのは東京ゾーンで、江戸ゾーンよりも写真をたくさん撮影しました。
今回は気に入った写真を選定したにも関わらず、予想以上に写真過多となってしまいました。なので感想・余談を控えめです。

明治時代

朝野新聞

明治東京の風俗

第一国立銀行 明治1873年(明治6)

第一国立銀行は、近代銀行制度の導入に伴い、殖産興行への賃金調達を主な目的として、兜町(かぶとちょう)に設立されました。日本橋界隈の、地の利が良い兜町には、株式取引所・保険会社などが集まり、やがて日本を代表する金融街を形成するにいたりました。建物の構造は江戸時代からの伝統技法を基にしていますが、外観は西洋建築の意匠を取り入れた<擬洋風建築(ぎようふうけんちく)>です。

江戸東京博物館解説より
銀座煉瓦街 1873年(明治6)頃
為替バンク三井組 1874年(明治7)頃
新富座 1875年(明治8)頃
鹿鳴館 1893年(明治26)
ニコライ堂 1893年(明治26)
明治後期の丸の内 三菱一号館、三号館(左)
芝浦製作所(工場内)『風俗画報』116号 1896年
新橋停車場構内(『風俗画報』241号 1901年)
石川島造船所(工場内)『風俗画報』236号 1901年
東京勧業博覧会イルミネーション絵葉書 1907年(明治40)
東京勧業博覧会イルミネーション絵葉書 1907年(明治40)

夜の東京イルミネーションとネオン
明治20年(1887)以降、電灯の使用が次第に広まり、電球によるイルミネーション広告へと発展した。1907年(明治40)に上野公園で開催された東京勧業博覧会では、3万5千84個の電球によるイルミネーションが話題となり、会場には多くの人が押しかけた。
ネオン広告は大正期に始まったが、本格化したのは、ネオン管が国産化された大正末期以降、昭和に入ってからであった。

江戸東京博物館解説より
三越のメッセンジャーボーイ 1909年(明治42)頃

英国風の制服を身に着けた少年が白い自転車に乗り、購入した商品を客の家へ届けるサービスが話題になった。

江戸東京博物館解説より

しかも配達は無料サービスでした。

三越少年音楽隊 1909年(明治42)頃

スコットランド風の衣装を着た11歳から15歳までの少年による音楽隊。店内行事だけでなく、外部イベントでも演奏して人気を集めた。

江戸東京博物館解説より

スコットランド風の衣装は、チェック柄のキルトに羽飾りのついた帽子を斜めに被ったスタイルでした。大阪三越でも3年後に少年音楽隊を新設しています。

森永のミンツ、ムスクビール自動車宣伝隊 1912年(明治45)

当時まだ珍しい存在であった自動車の車体に商品名を大書きし、宣伝目的で町を走らせた。

江戸東京博物館解説より

どこかの記事で、森永カフェの女給は可愛い子揃いで有名だったと読んだ記憶があります。確か戦前昭和頃のことだったと思います。そういえば、戦前女優の桑野通子も森永スイートガールをやってましたね。

和洋折衷

共楽太平貴顕図 1887年(明治20) 井上安治/画

文明開化と共に、さまざまな西洋の風俗や事物が日本に導入され、浮世絵師はそれらをいち早く描き出した。家の内部に装飾されている油絵や人物の洋装もその一つである。

江戸東京博物館解説より

浮世絵で表現される和洋折衷は、独特な魅力があって惹きつけられます。展示されている錦絵の中で一番気に入りました。

共楽太平貴顕図拡大画像
共楽太平貴顕図拡大画像
共楽太平貴顕図拡大画像

和洋折衷の風俗
欧米の最先端の文化を直接導入し、全面的に享受したのは、ごく限られた上流階級の人々だったが、東京の庶民も開化の文物を見聞し、しだいに生活のなかに採り入れていくこととなった。
文明開化の風俗でもっとも早く庶民に浸透したのは、「ザンギリ」と呼ばれた男子の断髪である。1871年(明治4)の断髪令で政府が髷を切ることを奨励して以来、ザンギリ頭は文明開化のシンボルとなった。また、洋傘などの比較的安価な輸入品を扱う雑貨店が各所にでき、西洋好きの人々でにぎわった。
一方、「牛鍋食わねば開化けぬ奴」(仮名書魯文『安愚楽鍋』)といわれた牛鍋をはじめとして、あんぱん、あるいは女性の髪型の束髪など外来文化の和風化もすすんだ。新しがり屋の東京人の庶民意識も手伝って、生活に溶け込んでいったものも少なくない。

江戸東京博物館解説より

新しい髪型

結髪雛形 マーガレイト(左) 二百三高地(右)

明治時代に流行した束髪の一種。マーガレイトは、三つ編みを結い、幅広なリボンや造花を飾った。女学生の間で人気の髪型であった。

江戸東京博物館解説より
結髪雛形 あげ巻
婦人束髪会 1885年(明治18)

髪型の結い方を紹介している。従来の日本髪と違い、自分で結うことができる束髪は手軽かつ衛生的で、洋装にも和装にも合う髪型として広まった。

江戸東京博物館解説より
束髪図解 1887年(明治20)6月16日
鬘附束髪図会 1887年(明治2)5月

髪型や帽子の部分を切り抜いて、真ん中の洋装の女性に付け替えて遊ぶ玩具絵。髪型の名称と結い方も書かれている。
女性の洋装化とともに、新たな髪型として「束髪」が考案された。

江戸東京博物館解説より

装身具等

パラソル
真鍮薔薇花簪 明治〜大正期(1868〜1926)(上) 真鍮真珠入簪大正期(1912〜1926)(下)

花びらがセルロイド、つぼみはサンゴで作られている。洋花であるバナは、着物の柄にも盛んに取り入れられた。

江戸東京博物館解説より
金襴織携帯用化粧道具入

石油ランプの灯り

(左)座敷ランプ1882〜1892年(明治15〜25) (中)卓上ランプ1897年(明治30)頃 
(右)卓上ランプ1897年(明治30)頃
明治時代の明るさ

明治のあかり
幕末、欧米から輸入された「石油ランプ」は、1870年代後半(明治10年前後)になると国産品も出回り、庶民の間にも急速に普及していきました。「石油ランプ」は、油壺に木綿でつくられた芯を浸し、油を含ませて燃やします。ガラスのホヤで火を囲い、その外側にガラスの笠を置いて反射を作り、明るさを増す工夫をしました。火をつける道具も火打石からマッチに替わりました。当時の日本では、畳に座る生活が中心だったため、それに合わせて脚の部分を長くした、日本独特の「座敷ランプ」が作られました。

江戸東京博物館解説より

新聞

新聞・雑誌の誕生
1870年(明治3)の我が国初の日刊紙『横浜毎日新聞』の創刊に続き、東京でも1872年に『東京日日新聞』、『郵便報知新聞』が、その2年後に『朝野新聞』が創刊され、福地桜痴、成島柳北、末広鉄腸ら旧幕臣のジャーナリストが活躍した。これらの新聞は、解説されたばかりの銀座煉瓦街に新社屋を構え、銀座はジャーナリズムの中心地となっていった。士族や知識人を対象として、社説を掲げ、政論を記事の主体としたこれら〈大新聞〉に対し、庶民向けに娯楽記事や読み物を主体とした〈小新聞〉も次々に発刊され、部数を伸ばしていった。浮世絵師が記事を絵画化した錦新聞も、人々への新聞普及にひと役買った。
同じころ、雑誌の創刊もさかんとなり、明治10年ころには200誌以上も刊行されていた。なかでも明六社の『明六雑誌』は、福沢諭吉ら当時を代表するそうそうたる知識人が参加し、多方面の論評を展開した。
しかし、1875年(明治8)に「新聞紙条例」が公布され、政論に対する取り締まりが強化されるようになると、反政府的言論を行った新聞などに対し、発行停止処分や編集者の禁固刑などの処罰も相次いで行われるようになった。

江戸東京博物館解説より

下の画像は説明ボードの切り抜きです。「明治新聞雑誌文庫所蔵新聞目録」などより作成と書かれており、新聞社の所在地が示されています。

東京日々新聞を発行していた日報社 上のマップで①の位置
朝野新聞社 上のマップで②の位置

1872年(明治5)の「東京日日新聞」を皮切りに、次々と新聞が創刊され、東京の近代ジャーナリズムが開幕しました。「朝野新聞」は、1874年(明治7)に創刊され、社長の成島柳北(なるしまりゅうほく)、主筆の末広鉄腸(すえひろてっちょう)らが新政府を辛辣に批評し、人気を博しました。

江戸東京博物館解説より
東京日々新聞 第913号 1875年(明治8)

明治初期、三井組と並ぶ豪商であった京都・小野組の使用人3名が、使い込みをしたあげくに支店の有り金を掠めて逃走し、兵庫県下の妓楼で捕まった話が描かれている。泥棒に金の番をさせるようでは、小野組も瓦解するのではないか、といった厳しい注釈も付いている。

江戸東京博物館解説より
落合芳幾/画 具足屋嘉兵衛/版
日々新聞エンジェルズのイラストが面白かったのでアップにしてみました。
郵便放置新聞 第571号 1875年(明治8) 月岡芳年/画

「郵便報知新聞」に掲載された記事をもとに、新たな文章を記した錦絵新聞。長崎の外国人寄留地の外国人を相手にした娼婦が代金を払わなかった客の落とした金時計を自分の物にした。その結果、領事館に訴えられ、窃盗罪になってしまったという話。同じ錦絵新聞である「東京日々新聞」が赤枠であるのに対して、紫色の枠を採用している。

江戸東京博物館解説より

輸出用ラベル

輸出用茶箱のラベル「BLACK CROSS」(1868〜1912)

明治維新によって江戸の武家地はあるじを失い、空き地となった。そのため、1869年(明治2)、東京府は、旧武家地のうち約300万坪に桑と茶の植え付けを奨励したが、この桑茶政策は1871年(明治4)に廃止された。
このラベルは、生産した茶を海外に輸出する際の茶箱に用いられたもの。生糸とともに茶が、明治日本の重要な輸出品目であったことを物語る。

江戸東京博物館解説より

群馬県にある県立日本絹の里という資料館で、明治初頭の生糸の輸出用ラベルを見たことがあります。ラベルに書かれた生産地の表記は「群馬県」ではなく「群馬国」と書かれていました。英語表記だったような気もしますが、こういった部分から当時の変遷がうかがえ、ジロジロ観察するのは実に面白いです。

博覧会

東京の産業発展は、政府の政策である〈富国強兵〉や〈殖産興業〉と連動して実現した。新産業や軍事部門を担う巨大な官営工場が設立され、〈上からの近代化〉が行われた。しかし、明治初期の民間産業は、職人層の手仕事による日常品や洋服・帽子など新たな雑貨品生産が主軸であった。
一方、東京では催し物を通じた産業振興も行われ、1877年(明治10)以降、3回にわたる〈内国勧業博覧会〉が上のが開かれた。銀座などの繁華街には、常設の商品陳列所の〈観工場〉も設けられた。
産業発展の様相は、戦争をきっかけに一変する。
日清・日露戦争の二つの戦争を境に、東京の産業も飛躍的に成長した。しかし同時に、工場の騒音や排煙など、さまざまな都市問題を引き起こすことにもなった。

江戸東京博物館解説より

明治に子供時代を過ごした古老は、百貨店よりも観工場の方が楽しかったと回顧録で述べていました。観工場は、現在のショッピングモールのイメージが近いかもしれません。商店の他に休憩できる茶屋(甘味も食べれる)、ちょっとした庭園を備えている所もあり、深夜0時まで営業していた観工場もありました。

博覧会諸人群衆之図元昌平坂ニ於テ 1872年(明治5) 昇斎一景/画

1872年(明治5)、湯島聖堂の大成殿において、日本政府による初めての博覧会が開催された。画面左には天産物(自然の産物)、中央には博覧会の目玉でもあった金鯱、右側には古器旧物(文化財)が描かれている。
博覧会の会場内に目を向けると、溢れかえるような観覧車が描かれている。人々の熱狂は、錦絵を通して日本各地にも伝わったことだろう。

江戸東京博物館解説より
博覧会諸人群衆之図元昌平坂ニ於テ 1872年(明治5) 昇斎一景/画 拡大
博覧会諸人群衆之図元昌平坂ニ於テ 1872年(明治5) 昇斎一景/画 拡大

下の画像は博覧会の目録です。

博覧会図式 明治五年壬申年三月於元昌平坂聖堂廿日ノ間 1872年(明治5)3月
博覧会図式 明治五年壬申年三月於元昌平坂聖堂廿日ノ間 1872年(明治5)3月

本図は、同博覧会出品物の絵入目録であり、2枚1組となっている。本資料はそのうちの1枚で、剥製や標本として出品された物が数多く描かれている。もう1枚の目録には、展覧会の目玉である名古屋城の金鯱が大きく描かれており、その周りには古器旧物が描かれている。

江戸東京博物館解説より

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三越呉服店ポスター元禄風俗美人(複製) 1907年(明治40)

春の新柄陳列会用のポスター。新橋の芸妓をモデルに、元禄模様の着物や兵庫髷姿で表した。当時三越は元禄模様の商品を積極的に打ち出し、ブームを巻き起こした。 

江戸東京博物館解説より
三越呉服店ポスター此美人(複製) 1911年(明治44) 橋口五葉/画

三越は当時破格の高額賞金をかけ、春の売出し用ポスターの図案を募集した。多数の応募の中から一等に選ばれた橋口五葉の図案は高い評価を受け、豪華な石版刷りで印刷されたポスターは瞬く間に評判となった。

江戸東京博物館解説より
三越呉服店「みつこしタイムス」 1908年〜1914(明治41〜大正3)

三越呉服店は明治32年から不定期に冊子が発行しており、最初の月刊誌だった「時好」を改題したものが「みつこしタイムス」です。
発行当初の4ヶ月は旬刊、10月から月刊化されました。
明治38年には、流行を生み出す組織として有識者たちを集め「流行会」を結成し、「みつこしタイムス」にその活動や講演会等の記事を掲載しています。

新案家庭衣装あはせ 1910年(明治43) 三越タイムス編集部考案/杉浦非水画
新案家庭衣装あはせ拡大画像
葵ポマード 明治後期〜大正期
ハチミツキャラメル 明治後期〜大正期

海外から見た明治日本

東京の街頭スケッチ(『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』) 1890年(明治23)4月

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は、1842年(天保13)にイギリスで創刊された週刊の絵入新聞。左上には野菜売り、右上には木炭運搬人が描かれている。東京の街頭でしばしば見られた様子である。
同時代の日本人にとっては当たり前の光景が、海外の人々にとっては珍しい光景であったのだろう。

江戸東京博物館解説より

幕末から明治初期の庶民の仕事

四谷塩町一丁目の場合
幕末から明治初期、政治や社会は大きく変動していき、庶民のなりわい(職業)にも変化があった。商品や職人系世帯の緩やかな変化の一方で、それ以外の世帯が町内より半減したことがうかがえる。

江戸東京博物館解説より

子供の遊び

新板子供あそび 明治時代(1868〜1912年) 小林幾英/画

教育的効果を持った子供の遊び尽くし絵。コマ回し、凧あげ、鞠つきといった遊びだけではなく、乗合馬車や人力車のような乗り物が描かれている。

江戸東京博物館解説より

立身双六

明治立身双六 1898年(明治31) 富岡永洗/画 幸田露伴/考案

堕落や怠慢を乗り越え、守節や積善を重ねていくことで、志が達成されることを説いた、教訓的な双六。『五重塔』などの作品で知られる小説家・幸田露伴が考案した。

江戸東京博物館解説より

明治は、男らしい蛮カラ学生が世間的に歓迎される傾向にあり、現代でも破天荒だったり、少し凶暴だと感じる話は多いです。

履物

下駄についてはこちらの記事でまとめています。

タカゲタ 1911年(明治44)
籐表下駄 明治末〜大正期
差歯高下駄 丈に雀文様

盛り場 浅草

江戸時代から両国と並ぶ盛り場としえ栄えた浅草は、明治の世となってからも引き続き、浅草寺境内裏の〈奥山〉を中心に、見世物小屋や大道芸でにぎわった。1873年(明治6)、浅草寺境内一帯が公園地に指定されると、1884年、奥山の見世物小屋は新たに区画された第六区に移転を命ぜられた。〈六区〉では従来の見世物や大道芸に加えてサーカスや曲芸が興行され、日本パノラマ館や凌雲閣(浅草十二階)などの遊覧施設が多くの人を集めた。
しかし、浅草六区の特色は、1903年(明治36)に日本初の活動写真の常磐館「電気館」が開場し、やがて活動写真館が軒を並べる民衆娯楽の本場となったことである。大正中期ともなると、休日には人の波が六区を埋め尽くし、身動きもままならないほどの活況を呈した。その後、浅草オペラや安来節が人気を呼び、さらに昭和時代に入ると「カジノ=フォーリー」「笑いの王国」といった軽演劇や松竹少女歌劇も加わって、東京のみならず、日本を代表する盛り場となった。

江戸東京博物館解説より
浅草六区の誕生

1873年(明治6)、東京府は浅草、上野、芝、飛鳥山、深川の5ヵ所を公園とした。その多くは旧幕府保護下の社寺境内地であった。浅草寺境内一帯は浅草公園となり6区画に整備された。
1882年(明治15)からはじまった浅草公園の造営工事で、浅草寺の南西に広がっていた低湿地が埋め立てられ、新たに街区が造成された。その場所が工業地の公園第六区〈通称「六区」〉となり、1884年、奥山の見世物小屋が移転を命ぜられた。六区では、玉乗りの江川一座やサーカスなど西洋の技を取り入れた芸がもてはやされ、常盤座や観音劇場の芝居小屋からは多くの俳優が育っていった。六区へ移転しなかった花やしきも、従来の見世物や生人形・からくり・曲独楽などに加え、やまがら曲芸・骸骨踊りなどの興行を行う遊園地となった。
明治20年代になると、高所から周囲を見渡す富士山縦覧場や日本パノラマ館、大観覧車が登場し、1890年(明治23)、六区の北側に高層展望塔の凌雲閣(浅草十二階)が建造されてますますにぎわいをみせた。なかでも煉瓦造の十二階は、浅草の新たなシンボルとして、近代的な娯楽地のイメージを吹き込んだ。

江戸東京博物館解説より
六区活動写真館の開業年

民衆と娯楽
日本で初めて公開された活動写真(映画)は、1896年(明治29)、神戸でのキネトスコープであったが、最初の常設館は浅草六区の電気館である。その後、三友館、大勝館、パテー館、帝国館、東京倶楽部などが次々と六区に軒を連ね、活動写真の人気はうなぎのぼりとなっていった。活動写真館は市外にも広がり、明治40年代には寄席や劇場の入場者数を抜いて、娯楽施設のトップに立った。
安価で楽しめる活動写真は、近代都市生活者の娯楽として欠かせないものとなったが、しだいに少年閲覧者への影響などが問題にされはじめた。まず、1917年(大正6)には活動写真興行取締規約ができ、1925年には活動写真の内容までかかわった検閲規則ができたが、浅草六区をはじめ新宿などの盛り場には映画を見に来る人の波が絶えなかった。
また、大正中期の六区では、浅草オペラが安来節とともに話題を呼んだ。とくに浅草オペラは〈ペラゴロ〉と呼ばれた熱狂的ファンを生み、「ボッカチオ」や「カフェの夜」などの歌が大流行した。こうして六区は、庶民の娯楽街としてさらなるにぎわいをみせた。

江戸東京博物館解説より
花やしき園内御案内図
花やしき園内御案内図

花屋敷
六区への移転をせず、奥山の伝統を引き継いで、江戸時代からの見世物興行を行いながら、やがて回転木馬、動物園などをそろえた近代的遊園地となった。

江戸東京博物館解説より
浅草公園 凌雲閣之図

竣工当時、凌雲閣は国を挙げて拍手を送られ、東京名物の一つに数えられました。浅草六区の北端に位置し、登閣料は大人6銭、軍人子供は半額。8階までは総煉瓦造りでエレベーターが通じており、11、12階は木造という構造でした。3階には当時珍しかった音楽休息所(料金2銭)があり、9階には新聞縦覧所、10階に休憩所(茶代を取られた)、11、12階には望遠鏡(1銭)が備え付けられていました。

凌雲閣の遺構

2018年2月、凌雲閣の基礎部分が見つかったとニュースで知り、見学へ行った際に撮影した1枚です。記憶が定かではありませんが、掘り出した煉瓦はタイミングが合えば貰えた気がします。
この基礎を眺めながら、これが十二階段の煉瓦か〜としみじみした気持ちになりました。
そういえば、大正生まれの祖母が小学生の時に流行っていた歌?を教えてくれたことがあります。
♬十二階は怖い〜怖いはお化け〜お化けは消える〜消えるは電気〜電気は光る〜光るはオヤジの禿頭〜♬
今思うと、この十二階とは凌雲閣のことだったのでしょうね。この変な歌?どなたかご存じないでしょうか。

東京百美人鏡 第8号 1891年(明治24)以降

凌雲閣の催し物の中で最も人気を集めたのが、百美人投票、いらゆる美身コンテストだった。登覧者は、一堂に集められた芸妓の肖像を品評し、投票した。百美人投票は、1891年(明治24)7月に始まり、くり返し催された。撮影は、明治から大正期に活躍した写真師・小川一眞(1860・万延元〜1929・昭和4)が行い、海外にも売り出された。

江戸東京博物館解説より
『浅草』社会地図(稿図)(大正十年六月三十日確定)

凌雲閣があった遊興系地区には、関東大震災前まで銘酒屋群が寄り集まっていました。前田豊『玉の井という街があった』に、凌雲閣とその周辺について書かれている箇所があります。少し長くなりますが、面白いので引用します。

銘酒屋群について

十二階下の千束町二丁目一帯から、五区の観音裏、六区の大勝館裏にかけて集結した、銘酒屋と呼ばれる浅草公園の私娼窟。ここには、全盛時約九百軒の娼家が密集し、千七百人の私娼群がいた。
(…)観音堂の周辺が七区劃に分けられ、完全な娯楽場になると同時に、吉原に近い千束町などに自然発生したものが、この銘酒屋であるといわれる。
銘酒屋という業種がいつごろ発生したかはつまびらかでないが、大正三年刊行の「浅草区誌」によると、浅草界隈の明治三十年(一八九七)に一ニ六軒、その後多少の変動があって、大正元年(一九一ニ)には四五九軒を数えるに至っている。業容は居酒屋の形態をとってはいるものの、実質上酒を売る店は一軒もなく、白首といわれる酌婦が店に出て遊客をひっぱり、気がるに売淫交渉を行った。白首というのはごてごてと首筋にだけ白粉を塗るのでその名が生まれ、以後ほとんど私娼の代名詞となった。

前田豊『玉の井という街があった』より

上記は七区劃に分けられたとありますが、花屋敷裏の遊興区を入れて七区ということでしょうか。

十二階について

(…)なにしろその眺望は、富士、筑波を左右に望み、秩父連山、房総の諸山、東は鴻の台、天気晴朗の日は西は箱根より、北は日光まで望めるといった、関東平野を一望におさめる景観を謳い文句にしていた。
このような珍しい建築物であるから、見物人は連日ひきもきらず、押すな押すなの行列をつくった。抜け目のないその方の業者がこれに眼をつけぬ筈はない。十二階の帰りには是非こっちの山へも登ってくれというわけでもあるまいが、ぎっしりと銘酒屋群がその周辺に蝟集し、人間ひとりやっと通れるくらいの通路から、酌婦が通行人の袖を引いたのである。(…)折角の名物十二階も、翌明治二十四年五月、建造後のわずか半年で、構造上の不備による危険を理由に、エレベーターの取りこわしを命じられ、目玉商品を失ってしまった。自前の足で十二階まで踏破するのは、物見高い老人子供の足では、簡単にできるわざではなかった。
その揚句、持ち主の福原庄七と電気会社との間に訴訟問題が生じ、客足は次第に減る一方。盛んなのは「下」のほうばかりだった。
但し、筆者のうろおぼえでは大正十年頃、再開後のこのエレベーターに乗った記憶がある。そのときは余りの動揺で、子供心にも怖かったものだ。しかし再開の時期がいつだったかは、文献を調べても、識者に訊ねても不明である。

前田豊『玉の井という街があった』より

関東大震災後、十二階は壊滅しその周辺の銘酒屋群も再建されることはありませんでした。その後ほとんどの銘酒屋は玉の井へ移り、戦後赤線の終焉まで営業が続きました。


まだ追加したい気持ちはありますが、徒に続けても仕方ないので明治時代はここで終わりにします。