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しばしのお別れ 江戸東京博物館その3

大正・昭和初期

東京名所之圖 墨田堤花ざかりの圖 1916年(大正5)

江戸情緒の名残を惜しみながら、近代化していく東京を見ていきます。

明治から大正・昭和へ

大正に入ると、東京に帝都としてふさわしい威容を与えた建築群が次々に登場します。1914年(大正3)起工以来7年の歳月を費やした東京駅が完成し、12月18日に開業式が行われました。その後も大戦景気により、丸ビル、帝国ホテル、三菱銀行本店、東京会館がいずれも1922年(大正11)に完成。
こうして東京の景観は大きく変わろうとし、これに対応する国の施策として、1920年(大正9)には都市計画法と市街地建築物法が実施され、1910年代の東京は近代都市としての基礎を固めていきます。
ところが、1923年(大正12)の関東大震災により都市は廃墟と化し、江戸の面影を葬り去りました。
震災を契機にモダン都市としての景観が次第に整えられ、帝都は廃墟から復興を果たしますが、江戸、明治との非連続性は東京という近代都市から国籍を奪い始めていきます。
また、新しい盛り場が活況を呈し、明治に一時寂れた上野広小路が復活しても、変わらず人々を惹きつけたのは浅草と銀座でした。

猫も杓子も銀座々々と騒ぎたてる
銀座でぶらぶら遊んでいる人を「ブラさん」と呼ぶ。
今でも耳にする「銀ブラ」は大正4年頃から使われ始め、大正末頃になると銀座で散歩をする意味に変わりました。
常に尖端を地で行く銀座は、モダン東京のシンボル的盛り場として全国に広く知られ、各地の「〇〇銀座」が本家にあやかったことは周知の通りです。
浅草は江戸からの伝統を受けて庶民的な発展をしてきた反面、尖端時代に対応しきれずにいました。しかし、大正後半〜昭和初め(1920年代)の浅草は銀座をしのぐ勢いで発展しており、銀座の常に新しいものを志向する風潮は、昭和10年以降(1930年代後半)に顕著となった現象です。

都市問題

1918年(大正7)の米騒動は、東京府・市当局に社会事業政策の必要性を認識させる契機となった。府に社会課が、続いて市に社会局が設置され、住宅・公設市場・公益質屋などの社会事業施設の建設が積極的にすすめられた。関東大震災以降では、職業訓練のための授産場、生活指導や学習・娯楽活動を行う市民館(方面館)、託児所などの施設の充実がはかられた。
また、民生委員の会となる方面委員制度が設けられた。これは、各地区(方面)ごとに任命された委員が貧窮者の生活を世帯別に調べ、相談や指導にあたるというもので、多分に治安対策の要素もあった。
一方、明治時代にあらわれたスラムやばい煙などの問題に加え、工場による水質汚染や職業病、ゴミ、屎尿処理の問題、交通事故の激増といった新たな都市問題も発生した。さらに、水質汚染をもたらす工場の設置反対やごみ処理によるばい煙問題、ガス料金値下げをはじめとする住民運動が行われるようになった。

江戸東京博物館解説より
新聞記事にみる都市問題
明治から昭和へと時代を経るなかで、都市の抱える問題もさまざまに変化した。

大衆文化の興隆

講談社の九大雑誌ポスター 1928年(昭和3)

大正期になると大部数の雑誌がさかんに発刊され、月刊誌のほかに週刊誌やグラフ雑誌なども登場した。『中央公論』『改造』など論壇中心の雑誌のほかに、『キング』に代表される大衆娯楽雑誌が人気を集めた。また、『婦人倶楽部』『コドモノクニ』など婦人や児童を対象にした雑誌も多数創刊された。
単行本の発行もさかんになり、1926年(大正15)、改造社が1冊1円の『現代日本文学全集』の予約募集を行って驚異的な部数を販売した。翌年には新潮社、春陽堂などもこれに続き、「円本」ブームが起きた。さらに、岩波文庫をはじめとする小型の文庫本も販売された。円本・文庫本の登場は、読者人口を拡大し、教養の大衆化を推しすすめた。また、新聞小説も人気を呼び、その挿絵の持つ魅力も多くの読者を獲得する要因となった。
大正から昭和初期にかけて、商品が大量に出回り、企業間の競争が激しくなると、新聞や雑誌に広告が多く掲載されるようになった。新聞広告に登場する商品の内訳では、化粧品・薬品・出版物が上記を占めたが、生活の洋風化・合理化にともない、調味料・ビール・清涼飲料などの広告も増加した。
印刷技術の発達や広告デザインの発展は、商品広告を一層華やかなものにし、アール・デコ調など、当時ヨーロッパやアメリカで流行したデザインも積極的に取り入れられた。また、屋外広告にはネオンサインやアドバルーンが登場し、東京の街をにぎわした。

江戸東京博物館解説より
おもな雑誌の創刊年と種類数の変化
大正期には大部数の雑誌が発刊され、読者ターゲットを絞ったものも各種創刊された。
円本合戦

1926年(大正15)、1冊1円の予約廉価版全集『現代日本文学全集』(改造社)が23万部の予約をとり付けたのを受け、各出版社から各種の〈円本〉が刊行された。〈円本〉は読者人口を拡大し、教養の大衆化を勧めた。

江戸東京博物館解説より

大東京誕生

人口集中のすすむ東京では、1920年(大正9)ころから市内の人口が減少しはじめたのに対し、隣接する町村部では増加し、しだいに住宅圏が郊外に拡大していった。この傾向に拍車をかけたのが関東大震災である。1925年の郊外人口は1920年の1.5倍と急激に膨張し、これに呼応するように都市と近郊を結ぶ郊外電車などの交通機関も発達した。山手線と郊外電車が接続する新宿、渋谷などのターミナル駅周辺に新しい盛り場が誕生する一方、郊外から都心へ通うサラリーマンや学生の増加は〈ラッシュアワー〉を生んだ。
急速に開発された郊外では、上・下水道、屎尿処理といった問題が深刻化したが、都市整備は大幅に後れた。各町村ではこのような変化に対処しきれず、抜本的な都市政策が必要とされた。人々の生活圏は、都心やターミナル駅のデパートなどでの買い物、郊外遊園地への行楽などによってすでに行政区域を越えて形成されていた。そうした大都市化を追認するような形で1932年(昭和7)、隣接5群82町村を合併した、35区の〈大東京〉が成立した。

江戸東京博物館解説より
東京府内の市営鉄道道路の開業年
大正から昭和の初めにかけて、都心から郊外へと伸びる鉄道が次々と開業した。
東京市35区 区名の変遷と人口の変化
1932年(昭和7)、東京市周辺の5群82町村が新20区として編入され、大東京35区となった。

サラリーマンの登場

丸ビル東側入口の一部

生活の変化
大正中期から、民間企業に勤める給料生活者、とくに事務労働に従事する会社員は〈サラリーマン〉と呼ばれた。彼らは、いわゆる資本家と工場労働者にはさまれた新たな階層として〈新中間層〉とも称され、勤務時間のさだめられた生活を毎日繰り返す一方で、勤務時間外や休日を活用した余暇を楽しむことが増えた。
やがて第一次世界大戦による好景気を受けて、サラリーマンや工場労働者の賃金が上昇すると、生活費を占める交際費・娯楽教養費の割合も大きくなった。
また、それらサラリーマンや工場労働者など給料生活者の増加は、職場と住居の分離を促した。それは、住宅の間取りや暮らし方にも変化を与え、交通の発達とともに東京近郊の住宅地では、新しい生活様式が形成されていった。
その機運は、生活の合理化や洋風化をすすめる〈生活改善運動〉によって推進された。それが目指したような急激な生活改革は難しかったが、たとえば家族全員で食卓を囲む卓袱台や茶の間の普及など、家族中心の暮らしから徐々にに生活の合理化が浸透していった。

江戸東京博物館解説より
北澤楽天『樂天全集 第7巻 ブルプロ漫畫集』(アトリエ社 1930年)より

モダーン

昭和モダン
関東大震災後の復興は東京のすがたを大きく変え、昭和に入ると新たな都市の景観と文化が生み出された。欧米文化の受容はこの時期さらにすすみ、欧米の流行は日本においても同時代的に取り入れられていくようになった。また、日本の生活様式のなかに欧米の様式を取り入れた和洋折衷の文化も一般的になった。
大正末期から昭和初期にかけてこの時期、昭和恐慌による不況の影がありながらも、都市文化は大いに花開いた。そしてそれらを象徴する言葉として流行し、さかんに用いられたのが「モダン」である。建築や文学、美術などさまざまな分野でモダンな作品・様式が生まれたほか最新流行の服装をし、自由で行動的なライフスタイルを求める「モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)」と呼ばれる若者たちも登場した。彼らは震災復興後、より近代的な街並みに生まれ変わった銀座などを闊歩し、モダンのイメージを形づくっていった。
また、休日に百貨店などへ買い物に行くという消費文化の端緒も、この時期より多くみられるようになった。銀座や新宿、渋谷などに新たに展開された百貨店は延伸される私鉄各線とも結びつき多くの人を集め、流行の発信地となっていった。

江戸東京博物館解説より
モダン用語辞典 1931年(昭和6)

当時流行した様々な「モダン」な言葉を解説した辞典。英語やフランス語の語句を取り入れたカタカナ言葉が多く見受けられ、我々が現代でも使用することのある言葉も確認できる。

江戸東京博物館解説より
同潤会アパートメント

1924年(大正13)、震災後の住宅供給などを目的に設立された財団法人同潤会は、地震や火災に強い、鉄筋コンクリート造の集合住宅を数多く建設した。

江戸東京博物館解説より

カフヱー

1911年(明治44)にプランタンやライオン、1912年(大正元)にタイガーが開業していますが、カフェーの全盛期は大正末年頃からです。
当時は、エプロンをかけた「女ボーイ」が給仕人として働き、コーヒー・洋食・洋酒などを提供し、エリート階級の社交場となっていました。
ところが1929年頃、大阪からエロを売り物にするカフェーの進出により、銀座名物のプランタン、ライオンは次第に凋落していきました。
正統派カフェーに替わり、サロン春、クロネコ美人座、グランド銀座などの大カフェーから裏通りのカフェーに至るまで、女給のエロサービス時代へ突入していきます。女給はエプロン姿の給仕人ではなくなり、派手な装いで客にエロサービスを提供し始め、さらにタカリが横行する店も現れる始末でした。

ちなみに、1929年(昭和4)東京のカフェーは6,187軒、女給は13,849人、そのうち銀座には1,690人いたそうです。

カフヱーアメリカ正面
カフヱーアメリカ酒場及食堂
女給

とても可愛らしく気に入っている1枚。束髪にまだ嬢のあどけなさが残る顔立ち、ひらひらしたエプロンがよく似合っていて本当に可愛いです。

大正・昭和初期の図案

三越呉服店包装紙(日本橋店開業直前) 1913年(大正2)頃

中央の写真は竣工予定の三越日本橋本店の模型。百貨店としてより幅広い商品を扱うため、1914年(大正3)、ルネサンス様式、地下1階地上5階の新館を完成させた。正面入口にはライオン像が据えられ、店内には日本初のエスカレーターやエレベーター、そのほか最新設備が設置された。

江戸東京博物館解説より
三越呉服店ポスター 1912年(大正元年)
三越呉服店ポスター春の新柄陳列階(複製) 1914年(大正3) 杉浦非水/画

杉浦非水が手掛けたポスター、女性は三越のPR誌を手にしている。
春の催しものにふさわしく、蝶やチューリップなどの花々がアール・ヌーヴォー風に図案化され、着物の柄から家具に至るまで、画面全体に散りばめられている。

江戸東京博物館解説より
三越双六 1928年(昭和3)12月

三越百貨店が発行した双六で、季節に合わせた子供たちの遊びや行事がマスごとに描かれています。マスには決まった番号と、さいころの目に対応した移動先(あるいは1回休みの指示)が書かれていて、出た目に応じたマスへ駒を進めていく「飛び双六」という形式になっています。

江戸東京博物館解説より
三越の催事案内 昭和初期(1926〜1931)

華やかなドレスや、円や直線を組み合わせた幾何学的なアール・デコ調のマフラーなど、モダンなデザインの品々が紹介されている。

江戸東京博物館解説より
東横百貨店包装紙(東横・目蒲線沿線図付) 昭和前期(1926〜1945)
東京商品館ポスター 昭和初期 杉浦非水/画
絞楽銘仙ミニヨン御召シークポーラ織ポスター 昭和初期

帯揚げの処理がリボンのように見えてお洒落です。

コロンビア 童謡レコードポスター 大正〜昭和初期
自動式電話交換の良し悪しは使い方一つポスター 大正〜昭和初期
婦人之友新年付録 婦人子供新装百姿 1926年(大正15)
東京遊覧乗合自動車 昭和初期
東京遊覧乗合自動車 昭和初期
雑誌「モダン日本」 1931年(昭和6)

サラリーマン向け雑誌。内容は芸能・スポーツの話題から観光地の紹介、漫画、グラビアと多岐にわたり、当時のサラリーマンの多彩な趣味を感じさせる。

江戸東京博物館解説より
最新流行「東京行進曲」楽譜 1929年(昭和4)

「東京行進曲」は、雑誌『キング』に菊池寛が連載していた小説を、溝口健二が映画化した作品の主題歌。モダンな風俗をちりばめた西條八十の歌詞が受けて25万枚のレコードを売り上げる大ヒット曲となった。歌詞の2番に丸ビルのサラリーマンをうたった歌詞がある。

江戸東京博物館解説より

大正生まれの祖母は歌謡曲が好きで、やはりこの歌も口ずさんでいたことを思い出しました。けれど、戦前歌謡曲の魅力を私はまだ知りません。

「東京ラプソディ」楽譜 1936年(昭和11)

「東京行進曲」が歌われた震災復興の時期以降都市化が進んだ銀座、浅草、新宿などの街を、軽快な曲調で歌いこんだこの曲は、当時35万枚を売り上げるヒットとなった。東宝系のP.C.L映画製作所により、同名の映画も同年、製作された。

江戸東京博物館解説より

モダンモード全開、そんな映像に何故か照れ笑いを浮かべる自分がいます。
モボ・モガは銀座の街を何度も往復するのがお決まりで、「あと3回ブラつけてよ!」なんてモボを煽るモガもいたとか。銀ブラするのもくたびれちゃいますね。


永井荷風『近代日本文学全集』 1926〜1931年(大正15〜昭和6) 杉浦非水/装幀
家庭瓦斯化双六(複製) 昭和初期(1932〜1945)頃

家庭用ガス器具で構成された双六。ガスは当初、灯火用エネルギーとして西洋から導入されたが、関東大震災以降はもっぱら熱源として用いられた。掲載されている器具にも灯火具は見当たらない。

江戸東京博物館解説より
友禅図案下絵モダン花丸 昭和前期

家電器具

住生活の諸相
近代になって登場したガスと電気は、まず室内灯の光源として普及し、関東大震災を境に、暖房・調理などの熱源としても、広く用いられるようになった。これらによって、住生活のあり方は徐々に変化した。
ガス灯は石油ランプと並行して、明治期のあかりの主役であったが、大正以降はその座を電灯に譲り、むしろガスコンロ(ガス七輪)が調理用の熱源として一般家庭に普及し、台所の配置などに影響を与えた。そのほか、ガスストーブは洋間の暖房具として文化住宅などで用いられた。
一方、電気は、従来の火力に加え、水力発電の開発がすすんで供給量が飛躍的に増大した。さらに東京市電気局、東京電灯、日本電灯の3者による値下げ合戦で電力料金が低下したため、電灯が急速に普及した。当時の電球は、20ワット程度のものが一般的だったが、従来のあかりよりは明るく、器具の手入れもより簡便になった。また、扇風機やアイロンなどの電化製品は、山の手の家庭を中心に早くから取り入れられ、欧米式の生活に用いられるトースター・ストーブ・洗濯機・冷蔵庫なども、昭和初期には次々と国産化されて珍しがられた。

熱源としての電気・ガス
大正期から灯りのエネルギーとして使われるようになった電気とガスは、関東大震災後、熱源として注目され、調理具や暖房具が売り出された。モダンなデザインのストーブは、当時庶民があこがれた文化住宅の応接間(洋間)などで用いられた。
一方、生活改良の観点から、江戸時代より親しんできた火鉢などの暖房具を電化した製品も売り出され、戦後まで使われた。

江戸東京博物館解説より
羽釜ガスかまど 1910年(明治43)頃  電気ストーブ 大正末〜昭和初期

羽釜付ガスかまど
ガスの熱源利用の製品として最初に開発されたのが、ガスかまどだった。焚き付け材料のストックも必要なく、煙も出ないため、都市部を中心に需要が広がった。本資料は、1972年(昭和47)まで使用された。

電気ストーブ
当時流行したアールデコのデザインを取り入れたモダンなストーブ。同時期に多く建てられた文化住宅などで用いられた。

江戸東京博物館解説より
電気七輪(コンロ) 昭和前期
反射式ガスストーブ 昭和前期(1932〜1945年)  真空管ラジオ 1930年代
ガス・電気の普及とその利用 

和洋折衷住宅

復元 昭和10年代

この建物は、大正初めに建てられ、その後、1937年(昭和12)大熊喜英の設計によって改築された住宅(品川区東五反田)の一部を移築・復元したものである。「食堂兼居間」は、大正から昭和初期に流行した山小屋風で、となりの和室との仕切りには、カーテンと襖を使うことで違和感なくしている。照明具や家具も部屋と調和するよう、大熊がデザインを担当した。

江戸東京博物館解説より
金属製タバコセット 1920〜30年代(大正後期〜昭和初期)

アール・デコのデザインを取り入れた喫煙具。当時、応接空間に置かれるシガレットと喫煙具は来客をもてなす必須アイテムだった。本資料は移築前に「和洋折衷住宅」(福本邸)で使われていた。

江戸東京博物館解説より

下町の庶民住宅

庶民の生活
明治期以降の東京の庶民住宅は、おもに江戸時代の町人や中・下級武士の住宅から発展した形式である。武士の住宅をモデルとする庭に囲まれた一戸建ては、おもにサラリーマン層に受け入れられ、山の手や郊外の住宅に広がった。通りや路地に面して建つ町人の住居である町家や裏長屋は下町地域に多く、商人や職人の住居として発展した。
明治後期以降、町家や長屋では、客座敷など武士の住宅の要素が取り入れられる一方、表土間の出入り口の形式を整えて、独立した台所や玄関を設けたり廊下を作って各部屋の独立性を高めるなど、家族の生活を重視した間取りがしだいにみられるようになった。
大正期から昭和初期にかけて庶民の生活様式を大きく変えたものとして、ガスや専用水道、板ガラスなどの普及がある。路地での水汲みや火おこしは不要となり、路地に面していた台所は裏側に移された。
また、板ガラスの普及によって、戸を閉めたままでも室内の十分な明るさが確保できるようになった。
大正期に入った、新中間層向きの郊外住宅の分譲も行われたが、下町などに住む中流以下の家族は90パーセント以上が借家住まいであった。

江戸東京博物館解説より
台所と玄関
6畳間

この模型では、工場労働者が多く住んでいた中央区月島の4軒長屋(大正末期建造)の一部をモデルに昭和初期の庶民の暮らしぶりを再現した。
当時は、便所や台所に電灯のない家が多く、台所へは、必要なときに二畳間から引き入れて使った。ガスや水道が普及する以前は、外で水汲みや火おこしをしたため、台所は露地に面して造られるのが一般的であった。この長屋にガスが引かれたのは昭和10年代、水道が個々の家庭に引かれたのは、戦後のことである。

江戸東京博物館解説より

大正末期には2階建ての長屋が現れるが、路地に面して建つ長屋ではこのような平屋のものも多くみられた。裏路地は、便所の汲み取りのためにも必要な空間であった。
※引き窓とは、へっつい〔かまど〕や七輪などの煙を屋外に出すため、台所の天井に取りつけられた小窓である。紐を引くことによって開閉することができた。
この家では時代とともに煙突が使用され、引き窓は煙出しとしての用途を失い、おもに明かり取りとして利用された。

江戸東京博物館解説より

住みたい家

感染予防対策で立入禁止になっているため、家へ上がれないのは残念ですが仕方ないですね。
全ての展示を見終わってから最後にここへ上がり、住人になったつもりで鏡台や卓袱台の前に座ったり、縁側をウロウロしたりするのが定番でした。
新宿歴史博物館には文化住宅の復元があり、その住宅も素敵ですけど、あちらは台所がタイル張りではないので、やはりこちらの家が良いです。しかし、実際に住むとなると窓に網戸の設置が必要ですね。

"あのころ"の東京のくらし
この体験住宅は、1935年(昭和10年)ごろに、東京の板橋に建てられた住宅をモデルにしています。くらしの様子は、昭和20年代後半〜30年代の中間層(サラリーマン)の生活を想定して再現しました。当時を知っている方は、どうかその思い出をお知らせください。若い方や子供さんたちは、昔のくらしと今のくらしをくらべてみてください。

江戸東京博物館解説より
台所と居間
家の裏側


雑感

震災後のモダン東京から回想を試みると、明治の東京は失われた都市であると懐旧の感傷が強くまとわりついてきます。
東京は常に変貌し続けた、希有な都市です。古いものは一掃され新しいものに取ってかわり、それこそが文化的であるといった空気感に支配され続けてきたような都市に思えます。一体どこの国の都市なのか、錯綜した考えが頭に浮かび、そのせいか、過ぎ去った明治の東京を美化したい気持ちにかられるのです。
結果論ですけど、発展に盲信してきた東京がちょっと寂しいんです。

展示内容を駆け足で振り返りましたが、まとめた内容が不十分で恥ずかしい限りです。しかし、巨大都市東京の変貌を学ぶには大変最適な博物館であり、資料も分りやすく勉強になることばかりです。数年後の再開を楽しみに、この日記を終わりにします。


その1、その2の日記はこちらです。