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大正恋愛事件-蜉蝣のような果敢なさ-

『女性』四月特別號(昭和二年)にて特集された「大正年間の七大戀愛事件」。題のごとく七件の恋愛事件が紹介され、現在でも広く知られている話が取り上げられています。人は噂の奴隷と言いますように、センセーショナルな内容に多くの人が関心を寄せたことでしょう。
七大恋愛事件の中で特に哀れなのは、有島武郎と波多野秋子の心中事件です。現在もこの事件を取り上げている記事は数多くあるので、ほとんどの方が知っていると思います。なので現在の考察ではなく、昭和二年からほんの数年前に起きた事件を『女性』の記事にて、二人の悲劇の経緯を追ってみることにします。
本文は適宜要約しています。


心中事件

大正年間の恋愛事件で、有島武郎の場合ほど異常のセンセーションを惹起したのは他にない。
大正十二年七月六日、軽井沢の別荘浄月庵で二体の腐乱死体が発見された。発見したのは別荘を掃除しに来た三笠ホテルの従業員。
遺体は人相の見分けがつかないほど腐敗しており、室内は床、壁、天井に至るまで蛆が這い、酷い臭気に満ちて容易に近付くことが出来ない有様であった。
遺体の側に置かれていた鞄の中に遺書が残されていたことから、行方不明だった小説家の有島武郎と判明。
事件は翌々日の八日に各新聞で報道されたが、相手女性の身元は不明のままだった。東京朝日新聞は「麹町区内の某大家の娘であり、二年前から相州平塚の某所に同棲していたが二人の間に子供が生まれた結果、煩悶して此の悲劇を生むに至った」と憶測による出鱈目な報道をしていた。
しかしその翌日、身元不明とされていた女性は婦人公論の記者波多野秋子と判明し、新聞各社は競ってこの心中事件を大々的に取り上げた。


死の始まり

大正十一年の冬頃から秋子は仕事で頻繁に武郎を訪問し始め、個人的にも武郎の著書の校正などを手伝うようになった。
同年十二月頃、武郎は友人の足助素一に秋子について話をしている。
「美貌で僕を誘惑しようという婦人記者がある、実に滑稽じゃないか」。
その婦人記者とは秋子のことで、彼女がどんな方法で武郎を誘惑しようとしたかは明かされなかったが、武郎は少なくとも秋子の美貌を認め、その誘惑を感じていたことが分かる。


波多野秋子という女

生い立ち

実業家林謙吉郎と新橋芸妓の間に生まれた庶子である。娘の頃は母方の名字の青山を名乗っていた。
実践女子学校を卒業後、四谷見附付近で英語を教えていた波多野春房の私塾へ通い始め、その間に十五程年上の春房と恋愛に落ちる。春房は秋子と自由結婚するために妻を離別し、それが原因で秋子は林家から勘当されてしまった。秋子は結婚後に青山女学院高等科へ入学し、卒業後は二十五歳で婦人公論へ入社した。

波多野秋子の評判

秋子は薄幸の美女という印象が強く、著名人達の評価からもそれがよく伝わってくる。以下は著名人による秋子の印象である。

谷崎潤一郎
「名妓などの持つ異様に美しい眼」

高島米峰
「天成の美貌と巧妙な表情」

芥川龍之介
「大変利口な、一寸ヒステリーらしい人」

新居格
「頭脳明晰、つまり理知的な尖鋭、他人の心持ちを直覚する洞察力、テキパキと事を運んで行く手腕、美貌ですらっとした中背で感じのいい人であるが、デリケートなしっとりした情緒が希薄らしく見えた」

伊藤野枝
「ややヒステリカルな光りを帯びたコケティッシュな少し尖った冷たい眼ざし」

不幸な結婚生活

十五歳離れた夫婦は珍しくないが、秋子の夫婦関係が呪われていたのは、春房の人格に原因があった。春房は数々の怪聞や艶聞が噂され、度々新聞に書き立てられるような男だったからだ。秋子自身、職場で「波多野は何をしているか私にもわからないのよ、私なんかに尻っぽを掴ませるような、そんなへまじゃないの。そりゃ役者が私より二枚も三枚も上よ」とこぼしており、自由結婚をしたとはいえ、その関係は不純で冷めたものだったようである。


積極的な女

大正十二年春頃から秋子は武郎に対し、益々執拗に迫るようになったが、武郎からは「どんなに迫っても、僕には友人以上の交際は出来ないから」と拒まれていた。
同年十二月、武郎は素一に「その女に会うのが恐ろしくなった、何だか引きずり込まれそうだから成るべく遠ざけている、友人以上の交際は出来んから」と吐露する。一年前、「滑稽ではないか」と素一の前では虚勢を張って引きずり込まれないよう自分に言い聞かせていたのではあるまいか。つまり彼は出会った時から秋子に惹かれるところがあったのだろう。

波多野秋子の精神状態

秋子は普段から口癖のように「死にたい」とよく漏らしており、それは周知の事実であったようだ。

山田耕筰
「秋子は自殺の讃仰者」

足助素一
「秋子は常に死にたがっていた。死の道連れを屡々他の異性に求めたが、この人なら一緒に死のうという相手を求め得なかった。…それが有島を見つけるに至って、初めて死の道連れとして十分に満足して死んだのだ。恋の目的が死にあった。有島も共鳴していたからついに情死という結果になったのだ」

婦人公論主幹 島中雄作
秋子に呼びかけた追憶によると、彼女が「どれだけ突き詰めて死を凝視みつめておいでになったかは甚だ疑問です。…恐らく相手があの真摯で力強い有島さんでなかったら!私は、あなたは決して死ねなかった方だと信じています」と語った。
また、「あなたの女らしい虚栄心を満足させるものが有島さんを得ることによってあなたに与えられた」とも推測している。

春房は秋子を愛していたかもしれないが、「自分は波多野を良人おっととして愛する気持ちにはどうしてもなれない。父か兄に対する心持ちから一歩も進まない」と秋子は武郎に告白していた。


姦夫になる覚悟をする

武郎は秋子の誘惑を拒み続けていたが、遂に抗えなくなったのか「そんなに自分のことを思ているのなら姦夫になってやろう!そう決心した」と素一に決意を伝える。そして六月四日、武郎と秋子は千葉県船橋に一泊して、初めてすべてを許し合ったのであった。
恋愛としては誠にあっけないもので、彼等はその五日後に死んでしまったのだ。まるで生殖の事を終わると死んでしまう蜉蝣のように果敢はかないものであった。

有島武郎の精神状態

武郎が秋子の「死にたい」に「共鳴していた」のだろうか。
死の旅への前日、彼はつぶやく。
「僕は全く行き詰まったんだ。僕の全面は真っ暗なんだ。子供だってどう教育すべきかも分からないし、僕のようなものになってはおしまいなんだから…、僕は新興階級には無縁の衆生だ、生れ変わって来ない限り、第四階級に力を合わすことは出来ない。僅かに僕が働き得るのは第三階級だが、第三階級は早晩滅亡するのだ。僕の力はその崩壊を内から助長するだけに限られている。崩壊のために働くものには死滅のみが残されているんだ」。
彼は以前から、全財産を放棄して一労働者になるために着々と計画を運んでいた。それは新しく生きるための準備であったのだ。


蜉蝣のように果敢なく…

二人は東京からまっすぐ死に場所と決めた軽井沢へ向かう。

1920年代頃の軽井沢駅

軽井沢駅に着いた時は夜が更けて雨が降っていた。武郎は蝙蝠傘を持っていたが、傘を持っていなかった秋子は駅の売店から蛇の目傘を買い、別荘を目指して歩き出した。夜道を懐中電灯で照らしながら、人家から十五六町も離れた別荘へ人目を避けやっと辿り着いたのだった。

現在の地図でルート検索をすると、軽井沢駅から別荘浄月庵まで3.7km、徒歩で約50分。地図上では簡単な一本道のように見えるが、旧中山道軽井沢宿あたりから坂道になる。当時の状況を考慮すると更に時間を要したと推測できる。

永い永い暖かい思ひ出のみ残る、今朝は有難う、兄の熱烈なる諫死にも拘らず私達は行く、僕はこの挙を少しも悔いず、只十分の満足の中にある。秋子も亦同然だ。私達を悲しまないで呉れ給へ。母、子供等の事他所ながら御見守りを願ふ。僕の著作の印税全部は将来三児にやって呉れ給へ、原、吹田、秋田、藤森其他の諸兄にも手紙を書くべきだけれども此際だからりゃくす、兄より宜敷。
山荘の夜は一時過ぎた。雨がひどく降っている。私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしている。森嚴だとか悲壮だとかいへばいへる先景だが、実際私達は戯れつつある二人の小児にひとしい。愛の前に死がかくまで無力なものだとは此の瞬間まで思はなかった。恐らく私達の死體は腐爛して発見されるだろう。

二人は応接室の長テーブルの上に椅子を乗せ、それを踏み台にして縊死した。
武郎は高貴織こうきおりの単衣に角帯。
秋子は藤色花模様の絽錦紗ろきんしゃの単衣に茶鹽瀬地ちゃしおせぢの帯。
武郎は秋子の市松模様の伊達巻で、秋子は緋のしごきを用いた。
傍らのテーブルの上には二人の金時計、懐中電灯二つ、現金二百三十二圓十五銭入りの蟇口が置かれていた。そして死の前に書かれた遺書があり、武郎は母堂と三人の愛児と弟妹に宛てたもの、財産に関する覚書その他。秋子は男爵石本恵吉の妻静枝宛、良人おっとの春房宛、他一通であった。

二人の遺骸は七日に軽井沢で火葬し、八日早朝骨上げをして同日東京に持ち帰った。武郎の方は兄弟友人の多数が来たが、秋子の遺骨を持ち帰ったのは彼女の家の女中であった。武郎は無宗教ということで九日に告別式を行い、家人は彼の思想を尊重して葬式を行わず、青山の累代の墓地に埋葬した。秋子の遺骨は、九日に赤坂台町の覚永寺に葬られた。
武郎四十五歳、秋子三十歳であった。

現在、浄月庵は塩沢湖近くに移築されたが、以前は右側水色のピンの位置にあり、旧三笠ホテルからは目と鼻の先であった。また、浄月庵の隣に、武郎の妹愛子の夫である日本郵船の監査役だった山本直良の別荘があり、彼は三笠ホテルの所有者でもあった。避暑に訪れる妻子のために別荘の掃除をホテルの従業員に依頼したのだが、間違えて浄月庵へ掃除に入ったところ二人の遺体を発見した次第である。


心中事件の考察

波多野秋子について

秋子は数奇な境遇に生まれ、愛する事の出来ない男を良人おっとに持ち、初対面の人からは「しっとりした情緒が希薄」と見られる女であった。ヒステリーにもなろうし、死にたいとも考えるであろう。が、独りで死ぬほど強くもなく、自尊心と虚栄心の人一倍強い彼女は、つまらない相手を死の道連れに選ぶ事は出来なかった。そして、有島武郎を得て「十分に満足して死んだ」という事になる。

有島武郎について

武郎の友人によると、彼の思想の行き詰まりは秋子の口癖だった「死にたい」ほどの事であったが、彼が死を選んだのは秋子との関係を春房に脅迫されたからであろう。「俺は終生お前を苦しめてやる」と脅され、さらに秋子が死を迫ったためだ。
秋子のことを想っていたのならば、「姦夫になる決心がついた」とは言わないだろう。社会的制裁の的となるべき「姦夫」が彼には非常な問題であった。監獄に入る決心もしてたが、弱い彼には結局それよりも死ぬ方が楽だったのであろう。
それに秋子のような虚栄心の強い見え坊の女と一緒になったところで、一労働者として第四階級の味方となれるはずがない。長い間、甦生を企てた事がすべて無駄になり、「僕のようなものになってはおしまい」と行き詰まったのであった。長い独身生活へ身を投げてきた愛人が死を迫る。死ぬ気になったのは自然である。
彼が弟妹たちへ宛てた遺書に「私のあなた方に告げ得る喜びは死が下界の圧迫によって寸毫もうながされていないという事です。私達は最も自由に歓喜して死を迎えるのです」とあり、それに偽りは無かろうが、それは死ぬと決めてからの最後の心の明るさで書かれたものであろう。
武郎は死にたくないために、そこへ辿りつくまで非常な苦しみを嘗めたのである。そして「もう一度、秋の寂しい風物を見たい」と願っていた。さらに生への執着からか「秋まで生きていたら、また新しく生きる道が開けるかも知れない」との言葉を残していた。


感想

この心中事件が気になったのは二人の人物に関心を持ったからではなく、心中場所の軽井沢を目指すには、汽車で碓氷峠を越えなければならないという点でした。
あの66.7‰という急勾配の難所を越える、切なくもまさに死出の旅。
峠を越えたら軽井沢、汽車の乗車時間もあと一時間弱。日がとっぷり暮れた初夏の車窓からは蛍の飛ぶ姿が見えたかもしれません。
私は旧信越線の碓氷峠がとても好きなので、この険しい峠と二人の心情を重ね合わせて色々と想像を膨らませてしまいます。というのも、曽祖父が元国鉄職員で、大正十二年頃は軽井沢駅に勤務しており、もしかしてこの二人を見かけかも?と妄想が働いてしまいます。何だか遠い昔の事件が何故か身近に思え、余計に哀れに感じてくるのです。

死ぬために恋をする。真偽は謎ですけど儚い女心にゾクッとします。