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中山太陽堂のクラブ化粧品

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大好きな中山太陽堂のクラブ化粧品について自分なりに綴っております。
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記事一覧

中山太陽堂と資生堂の1920年代 Ⅲ

前回は東の資生堂について取り上げました。今回は西の中山太陽堂を見ていきます。 ♣阪神・中山太陽堂中山太陽堂については、創業者中山太一氏の卓抜した着想や遠大な構想を念頭に触れていきたいので、創業当初から振り返ることにします。 ♧中山太陽堂という商号 1928年の『太陽堂月報』に中山太陽堂の由来が述べられています。「太陽は無限生命の象徴であり、その不易不断の活動は、怠慢を知らず(…)吾人が彼を謳歌し、礼賛し、信頼する所以のもの、しかしクラブ化粧品本舗「中山太陽堂」の名を樹つ

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中山太陽堂と資生堂の1920年代 Ⅱ

前回の記事では、1920年代の特徴を一通り挙げてみました。今回は1920年代の資生堂を見ていきます。 1920年代の銀座・資生堂化粧品業では後発 資生堂は、日本初の洋風調剤薬局として開業。少しずつではありましたが、自社製の化粧品も発売していました。資生堂が化粧品業界へ本格的に参入したのは1916年、福原信三の時代になってからです。かの有名な「オイデルミン」で高評価を得ていたものの、あくまで薬局として認知されていたため「クラブ化粧品」や「レート化粧品」のように知名度は高くあ

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中山太陽堂と資生堂の1920年代 Ⅰ

以前の記事で阪神間のモダニズムについて軽く触れました。 今回は図録をもとに阪神間の文化を考察するつもりでしたが、華やかな女性文化が活発であった1920年代を軸に、阪神の中山太陽堂と銀座の資生堂を比較してみたくなりました。ただ、東西の化粧品会社でこの2社を比較するのは少し違和感がありますが、幅広く都市文化の形成に携わり、欧米の様々なモードを発信していた資生堂を外すことは出来ません。 中山太陽堂のライバルとして有名だったのは、レート化粧品の平尾賛平商店であり、「西のクラブ、東

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モダニズムを生きる女性-憧憬-

先日、欲しかった図録を古本屋で見つけました。2002年に芦屋市立美術博物館で開催された展示会「モダニズムを生きる女性〜阪神間の化粧文化〜」の図録です。この展示内容は中山太陽堂展と言っても過言ではありません。 タイトルに憧憬編を付けたのは、現時点で阪神間についての知識は殆どなく、漠然とした憧れだけを持っているからです。ですので、今回は阪神間とその土地の女性について触れることにします。 阪神間?曽祖父の時代から東京が故郷である私には、どの地域を阪神間と指すのかすら知りません。も

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クラブ化粧品-雑誌広告-

クラブ化粧品-クリーム-

中山太陽堂から「クラブ美身クリーム」が発売されたのは明治43年。翌44年には、英国式「クラブ美身クリーム」が発売されました。既に明治21年に大日本製薬より国産のコールドクリームが発表されていましたが、品質はまだまだ舶来品に及びませんでした。再び国産のクリームが登場したのは、明治40年発売の「御園クリーム」、明治42年発売のバニシングクリーム「クレームレート」です。また、明治末には化粧下地にマッサージクリームやコールドクリームを用いる欧米の化粧法が雑誌などで盛んに紹介されました

クラブ化粧品-白粉-

中山太陽堂は明治43年3月にクラブ白粉を発売。翌明治44年4月にはクラブ粉白粉、クラブ水白粉を発売。またその翌明治45年1月にクラブ打粉白粉、クラブ刷き白粉を発売。その後も次々と新商品や改良品を発売し続けています。クラブ固煉白粉、クラブタルカン粉白粉、クラブ美顔白粉、クラブ美の素水白粉、クラブ紙白粉、クラブ白粉錠、クラブ衿白粉、クラブ懐中用白粉錠、海綿用クラブ白粉錠、綜合ホルモン含有クラブ白粉、綜合ホルモン含有クラブ美身衿白粉、綜合ホルモン配合クラブ刷き白粉などなど、戦前だけ

クラブ化粧品-衛生用品-

少し前に戦前の衛生、清潔、道徳、マナー関連を調べる機会がありました。中でも一等驚愕したのはマナーでしたが、当時一般的に浸透していた価値観や習慣にも思わず失笑し、眉を顰めるようなエピソードが尽きません。明治に西洋的な新しい価値観が導入されたとはいえ、それが人々に浸透していくには長い時間を要したことでしょう。何れにせよ全てにおいて過渡期であったため、現代の価値観で短絡的に判断するのは懸命ではありませんが、新発見のような面白さは否めません。 以上のことを念頭に、まずは戦前の衛生に

クラブ化粧品-ほゝ紅-

ほゝ紅も少しずつ集まってきたので、戦前のほゝ紅の変遷を追いながら、クラブ化粧品から発売されたほゝ紅について記載していこうと思います。 ♣頬紅の流行明治期にはほとんど用いられなかった頬紅が流行し始めたのは大正初め頃。健康的な美しさを表現するものとして勧められ、扮飾上の一進歩であったとも言われています。 (ポーラ文化研究所『明治・大正・昭和の化粧文化 時代背景と化粧・美容の変遷』2016年)に頬紅の記述があったので、昭和6年〜12年の項目を引用します。 頬紅の種類は粉製、水

クラブ化粧品-紙もの-

少しですがクラブ化粧品のしおり型広告など紙類も集まってきたので、クラブ白粉や美身クリームの記事と同様に追記していく形にしていくつもりです。中山太陽堂の広告・宣伝の変遷については以前の記事(有料)で触れているので、ここでは軽く触れることにします。 ♣中山太陽堂の広告広告宣伝の奇才と言われた創業者中山太一による広告戦略は、独創性溢れるアイディアで世間を驚嘆させていました。大手百貨店とのタイアップ、宣伝車、航空宣伝、電飾・街頭広告、少女音楽隊・街頭宣伝、鉄道式広告と奇抜なアイディ

クラブ化粧品-少女のお化粧-

大正6年、7年の『少女画報』に中山太陽堂によるクラブ化粧法が紹介された記事を見つけたので、取り上げておきます。 ♣少女とは少女という呼び方が一般化したのは、明治30年代といわれています。明治20年代前半頃までは少年・少女の区別がなく、年少者はまとめて少年もしくは幼子の呼称として、男子・女子が一般的だったようです。 明治30年代以降、少女といえば女学生がその代表的な存在として認識され始めます。理由として考えられるのは、明治30年代以降に女学生の増え始め、同時期に少女雑誌の創

クラブ化粧品「陽級」「堂級」「特定品」?

以前投稿した記事で、クラブ化粧品には販売ルートが3本(「陽級」「堂級」「特定品」)存在していたことについて触れました。 しかし、化粧品カタログと無理矢理ひとまとめにしたせいで、内容が錯綜してしいたため記事を分けることにしました。 こちらの記事は、『堂級クラブ化粧品カタログ』のみにまとめ直しました。 ♣堂級?陽級?特定品?クラブ化粧品を収集していると、「陽級」「堂級」「特定品」という文言を必ず目にします。東京小間物商報のクラブ化粧品の広告でも「陽級第七分科商品」等という記載が

クラブ化粧品-お化粧-

♣初めに大正15年〜昭和4年頃までのものと思われる、クラブ陽級化粧品の小冊子を入手しました。 小冊子は一冊ずつまとめておきたいので、他のものと内容が重複する項目がありますが、省略せず内容を取り上げたいと思います。 ♣美麗な表紙花と鳥が左右対称に配置され、金箔が施された美しいアールデコらしいデザインです。書籍の扉絵と見紛うレベルの高さであり、カタログの中でも凝ったデザインだったのではないかと考えられます。 昭和5年元旦号の『東京小間物化粧品商報』に掲載された、クラブ化粧品の

クラブ化粧品-堂ビル専売品カタログ-

クラブ化粧品の小冊子が8冊集まりました。 少しずつでも資料が増えるのは嬉しいことです。小冊子を入手する度に新たな発見があり、中でもラベル図案の変化や、クラブ化粧品のルートによって異なるラベルを初めて目にした時はとてもワクワクします。 ちょっと小冊子の記事が多かったと思いますが、ひとまずこの記事で小冊子については一段落というところです。 では、毎回のことですが小冊子の全ページを取り上げてゆきます。 ♣クラブ 堂ビル専売品カタログ 今回入手したのは、堂島ビルヂングで取り扱われ