夫婦別姓とアイデンティティ

 恣意であり妄想であり根拠は無いことを承知して、批判は行わないこと。
 この時代、ここまで書いていないと怖い。

外見と外部に依存するアイデンティティ

 さて、私には理解できないことがある。
 親に言われての習い事ならともかく、自分から希望する習い事、つまりは趣味で『発表会を待ち望む心境』が理解できない。
 歌であれ楽器演奏であれ、私の場合は自分が満足したいから練習し、必要であれば人に習う。
 しかし他人に見せようとは思わない。
 自分でうまくできたと思えれば満足なのである。
 あくまでも評価は自分で行う。
 それが趣味の世界だと思っているからである。
 また、いくら練習しても他人に見せるような腕ではないと、良い意味では「実るほど頭を・・・」の心境である。
 下手な素人芸を他人に見せるほど恥ずかしいことは無いとも『私は思う』。

 しかし、カラオケ大会や市区町村での『文化祭』などでは、団体はともかく個人が舞台で歌い演奏する。
 団体の場合は、団体の存在意義かメンバーの動機づけとしての意味が理解できるが、個人でも必要なのだろうか?

他人に評価されないと自分が見つけられない性格

 どうも、他人、つまり外部からの評価が無いと我慢できない人種がいるのである。
 趣味の世界でも自己評価より他人の評価が大事で、極端に言うと、それが最大の動機となっている人種である。

 半ば以上こじつけだが、外部からの評価が動機であり、自己同一性としてのアイデンティティの確立の重要な要素となっているらしい人がいるのである。
 人が評価しないと自分を見つけられない性格とも言える。
 もちろん、仕事や団体作業や団体スポーツでは他人の評価は重要である。
 仕事などで主観的になることほど危険で、かつ、周囲にとって迷惑なことは無い。
 でも、趣味の世界でそれほどに客観性が必要なのだろうか?

 しかし、発表会を心待ちにしている人たちが多いことは確かである。

夫婦別姓に反対するアイデンティティ

 趣味の世界だけではない。
 全てにおいて自分の内部での事よりも外部が大事な性格がある。

 自分の信条を他人に押し付けないと気が済まない性格。これは高齢の男性によく見かけられ、現影木時代の役職が高いほど顕著になる。
 他人の評価が気になり、ひいては策謀ででも実力以上に見られたい性格。

 つまり、アイデンティティの確立において他人や社会が自分の考えと同じでなければならない性格が存在する。
 また、自分と同じ考えの社会でなければ安心できない性格も存在する。

 これが『夫婦別姓に反対する』大きな理由だろう。
 自分の考えと違うも社会になると自己のアイデンティティが変わりかねないその変化に恐怖するのである。

 だから、夫婦別姓には反対が多く特に保守派と呼ばれる政治家たちは、社会の変化が自分のアイデンティティを変化させると恐怖してしつこく反対する。
 世間の評価や世間が自分と同じ考えであることがアイデンティティである性格がもたらす恐怖である。

みんな自分と同じでないと安心できない性格

 周りがすべて自分と同じ価値観でないと安心できない性格。
 これの度合いが強いほど保守的になる。
 論理的な思考ではなく、それまでの教育や親のしつけで刷り込まれた考えを必死で守ろうとする性格がこれに拍車をかける。

敷衍すると保守的性格は恐怖から生まれる

 のである。
 論理よりもそれまでの刷り込みと思い込みから抜け出せない性格。

 しかし、これは生存においては重要な性格ででもある。
 野生でいつも危険にさらされている環境で、いちいち時間をかけて『論理的判断をする』と、天敵の餌食になり災害の被害者になってしまう。
 教育や躾での刷り込みの根拠の多くが、それまでの社会的な経験から最も安全性が高い対応方法であるものが多い。
 考えるよりも刷り込まれた内容でまず動くことが、最も生存率を高くするのである。
 何故?
 生存率が高くない刷り込みを受けた者は生き残らないからである。
 これは『非情な結果論』である。

保守派の持つ恐怖を理解して対応することが大事

 むやみに論理的内容で攻撃すると逆効果である。
 相手の性格を判別し気長く対応することは、思春期の子供たちへの対応と同じく大事なことである。

攻撃ばかりする北風では
成功しないことが多い
のである。

bye

ありがとー