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あの人にはまる人生、はまらない人生

親の影響

からは否定+受け止めをされることが多い。
父は考えを押し付けない。僕の考えを聞いてくれる。ただ、ものすごく現実的に指摘してくる。とても理論的だ。ほんとに人生1周目なのだろうか。


からはたぶん肯定が多いが社会的に見てどうかという価値尺度を教わった。
小学校の水泳大会で、僕がぼーと他の人が泳いでいるのを見たり、プールサイドの草を見ていたりしていた。
家に帰ってからだったか、「ちゃんと真剣に他の人の泳ぎを見てた!」と言われた。ああ、自分が泳いでいるとき以外も気を抜いたらまずいんだなと、

客観的な視点

というものを与えられた。



その影響か、僕はとても人の目を気にする。
インスタを挙げるときもそうだ
この写真を挙げたら、生意気に思われるかな。この食べ物のマイナスプロモーションになっちゃいそうだから、この写真はやめよ
友達のメンションをつけないと失礼かな、どの人までメンションつけるべきだろ
この写真はナンバー写ってるから使えないや
この人は写真のっけても大丈夫な人だっけ?マスクしてるからいいかな

自分がどう見られるかという自意識と
他人を変に傷つけないかという意識によって、投稿1つに30分かかったり、3回も修正したりする(笑)

客観的視点は自分の身をこれまで何度も守ってきた
だからこそ、今さまざまなコミュニティで活動させてもらえているだろう
それと同時に自分を縛り上げてきた
社会的な立ち場として○○していないとだめだ。○○という発言は不適切だ。とても

窮屈な人生

を送ってきた


中学校の運動会の片付け


僕は美化委員長をしていた。壊れたポンポンや椅子の足に巻いていたビニール袋を燃えるごみの袋に入れていた。
運動会は自分の組が勝ち、意気揚々としながら作業をしていた。
友達とはしゃぎながら、とても盛り上がって、ごみ袋に中学校名を書かなきゃいけないが、僕はここの欄に友達の名前を書いたら面白いと思って、友達の名前を書いて、友達に見せた。
友達も自分も大爆笑!気持ちよかった
それと同時に、担当の先生から注意され、「そんなことやる人だと思わなかった」と言われた。急いで書き直し、またミスり友達と笑ったような気がする

「そんなことやる人だと思わなかった」


この人生で何回言われてきただろう
「キャラじゃない」
「向いてない」
「らしくない」
そういわれる度に、あなたは私の何を知ってるんだと思う

そんなことやる人だわ!知った気でいんなよ、俺を更新しろ!
と思う。とても恥ずかしいが、本気で思う

月曜日にゴミ捨て場に行って、ハンカチで綺麗に友達の名前を消し、中学校名を書いた。悲しかった。結局は真面目な生徒で生きなきゃいけないと

合唱コンクール

ではストッパーが外れた
コンクール後のクラス会で一人ずつ感想を言い合った。
僕は、「感動した」と言って、体感3分くらい熱弁して、みんなを爆笑させた
クラス会で何というかは、一週間、いや二週間前くらいから決めていた気がする(笑)
そのくらい前から僕は準備をする。そういうやつだ、そういうことする人なんだ

あるかもわからない未来のために、妄想に妄想を膨らませて準備

をする。
もちろん、何の機会も得ないまま消えていく妄想練習もある。
文化祭で、合唱コンクールで卒業式で体育のソフトボールで、こんなことをしたい、こんなことを言いたい、こんなプレーをしたい!
そのいつ来るかわからない、一生来ないかもしれない瞬間のために、自分のやりたいことに向けてこそこそ練習を重ねる

それがバチっと合う瞬間が人生ではある
いや、自分でちょっと作っているのかもしれない
これからあと、どれくらいその瞬間を作りにいけるだろう
その瞬間を作るために自分はエネルギーを割きたいなと思う

今はお笑いがその出口になっている。僕はお笑いを一人部屋で考えて、まずは一人でネタをやっていたり、モノマネを練習しているようなやつなのだ。

最近は、「らしくない」と言われることも減った
僕が変態だと認識してくれる人が増えたからだと思う

ただ、まだまだ言いたいことも言えてない、やりたいネタもストップさせているのだ
これはお客さんに引かれる、ネタの脈絡がない
そんなことを言われて、眠っているボケ、ツッコミ、ネタがたくさんあるのだ



まだまだ

客観的な目線に縛られて

毎日を過ごしている。
たまに、どうでも良くなって、爆発したように何を考えずに行動することがある。

なぜ、客観的な目線に支えられて生きているのに、こんなに苦しませてもくるんだろう
「気にしすぎ」
そういわれれば、そうだ。正解です。ただ、じゃああなたはこんなツイートやインスタアップしてもいいねだけ押してくれるのか?と思う
批判しないのか?!絶対なんか思うだろ、じゃあ、気にしすぎじゃないんだよと思う。

だけど、

客観的な視点を求めている自分

もいる。自分に自信がないから。他者の意見を求める。だけど指摘はされたくない。
とてもわがままで扱いずらい人間だなと客観的に思う。
ようやく最近は、指摘されても大丈夫になってきた。
だってあなたの指摘は100点じゃないから。あなたが毎日100点ではないから。

今までの僕は、全員から絶賛されることを求めていた。だけど、全員から良い評価をされることはない。
全員にハマろうとしていた。全員にハマらなくていいと最近わかった。
この人にはハマらなんだなと、この前のライブの打ち上げで終わった。僕はその人を追わなかった。前までなら、ハマりたくて、店の外まで追いかけて深々と挨拶をして、気に入られにいっていただろう。ただ、あと人にかわいがられなくてもお笑いはできる。そう思うと、生きるのが楽になってきた。
だから、指摘も受け入れられるようになってきた。

これからも、それは共感できないです、何が面白いんですかと言われるだろう。でも全員が面白くないんだろうか、どこがおもしろくないんだろうか。その部分の価値観は僕が大事にしていない部分だから、変えてもいいのか、それとも絶対に譲れない部分なのか

絶対に譲れない部分

なら、僕はあなたの今の正解より、自分を信じる
こんな文を書くのも恥ずかしい(笑)

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