原風景

   原風景という言葉を聞いて、まず私が思い浮かべるのは、山々の間に拓かれた段々畑である。足元を撫でる道草にふと見下ろせば、小岩に囲まれた遠く煌めく江に、釣り人の手漕舟が切絵のように捺されている。山頂から吹き降ろす風と、潮風とが丁度綯い交ぜになって、土気と草息を立ち昇らせる。大気と波の、二重の揺らぎの向こうに陽が落ち行くのを、ぼうっと眺めるのだ。  

   とはいえ、これは私の心象風景のひとつではあるのだが、やや「原風景」という語に浸りすぎな気がしてしまう。すると私は、心を迷い子にする。文字通り、わずかばかりの小銭と、体に合わない真新しい自転車に跨って、見知らぬ海岸通りに、心だけを向かわせる。 なにかしら昼日中に十分遊んで、重くなった体を引きずりながら、傾く陽と冷えていく風に不安が募る。そんな時に、私は水平線に沈みゆく夕陽を見送りたいとは思わない。望むのは、家路を進む実感である。

   つまり、どこまでも続く電線と幹線道路の見慣れた番号、外食チェーンと排ガスの香り、アスファルトからの放射に揺らめく、街灯と信号機の灯りこそ、正しく私の原風景なのである。

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