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コロナ禍における「政治家のリーダーシップ」

「帰ってきたヒトラー」という映画をみた。

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この映画は2015年に放送され、瞬く間に日本でもヒットした。ヒトラーが現代にタイムスリップし
彼は人気芸人として見られて、人気を博す。世の中は彼に再び、心を奪われてしまうのであった。

この作品は含意がありすぎてコメディーを超えている。トランプ政権の先が読めない指揮体制、ポピュリズム、欧州排斥問題が共通問題となっていた昨今。
世界をより狂わしたコロナ禍の現代に、ヒトラーの存在の世界制覇は絶好の機会であると感じた。

コロナ禍のリーダーシップと合わせて、この映画を解題する。

まだ見てない方は、読む前に見ることをお勧めします。

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ヒトラーはドイツをファビリンという映画監督志望の青年と共にドイツを周った。ドイツで出会う国民に、現代の政治体制である民主主義に関しての考えや政府や社会への不満や現状、それからヒトラーの功績を聞いて回っていく。

ヒトラーは最初、国民は、時代を経て低俗になり、IQも下がったと文句をいっていた。しかし、キーワードを投げかければ、自分の考えや意志があり、現状に変化をもたらしたいという国民の内面の気持ちに安堵感を示す。


ある農園で、ヒトラーは年老いたおばさんとその息子に「30年代の私をご存知では?」と話をもちかけた。その会話の中で「過去を嘆いてはいけない」というヒトラーに対し、息子は「過去を繰り返さないために歴史から学ぶんだ」とヒトラーの姿勢を否定した。すぐさまヒトラーは住所を控え真っ先に逮捕させると警告し、その場を立ち去っっていった。


彼がドイツ中を回っていくと、様々な意見に出くわす。しかし、何も考えていない人やその場さえよければいいという楽観主義な国民は多い。ヒトラーは自国を愛し、支持する者には、  

一段と心を通わせ真の国民だと奨励する。
 

物事を真剣に考えることを放棄した人は、やがてこのような声の大きい人に従うことが、最も楽で、正しいことであると考え始めてしまう。

どんな危険性がそこに孕んでいるのかより、目先の物事がよくなることに目を向けているのだ。


ヒトラーが持ち合わせていたもの。それは第一に「声の大きさ」だ。

ドイツを旅している中で、政治に期待していない飲食店のスタッフにこんなセリフをかける。 

 「ちいさな存在でも協力して大きな存在に任せればいい」

国民の思いは大きな存在である人がすくい上げ、必ずや先導していくという自信と強さが伺える。

これは、扇動にもなりうることを忘れてはならない。
 
今、このコロナ禍において、政治の指揮の高さが国の命運を瞬時に大きく変えることとなっている。
政治家のリーダーシップにおいてプロパガンダであり扇動力が、皮肉にも大きな鍵を握る。

国のアイコンとして自分自身の姿勢を見せることが物事を瞬時に進めるためには、必要なことであるのだ。ヒトラーが確固たる世界観で常に正しい結論がだせるとして誰もが疑わなかった。それが失敗に終わるという考えは、考えてはいけないこととされていた。従うことが正義であったのだ。

アイコンとなるか

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このコロナ禍において、国民に指示され続けるリーダーとは、瞬時に国民の不満や意見を取り入れ、明確に姿勢を自分の言葉で話すアイコンとなる人だ。残念ながら我が国のトップリーダーが語る言葉には、一貫した姿勢がなく曖昧で頼りない。
 
もう一つ印象に残ったシーンがある。

テレビ会社の会議室に、始めて踏み入れた時のことだ。突然のヒトラー出現に困惑する社員に対し、ヒトラーは「コーヒーは好きか」と問いかける。

続いて、「スターバックスのコーヒーが好きであるなら、その添加物が体に与える影響はスターバックスがとるのか」と声を張り上げる。最後には大きく、

「だから必要なのだ!変革と責任をとる指揮者が!!!」

と強い眼差しで、その場の空気を、全てものにして見せたのだ。
 
正直、コーヒーの話から責任に行き着くのは、あまりにも筋が通らず、突拍子もない愚論であると思った。

しかし、よく考えてみると、私たちはあらゆるところにネットワークが張られ、いつどこで自分に害や災が降りかかるか分からない不安定な状況にいる。

今そんな世の中において、責任の居所をはっきりしたいという心理が働くのは無理もない。自己責任になにもかも、したくないのだ。みんな、社会の中に生きて、どこかの国民であると自覚しているのだ。


この演説後、テレビ会社の女社長であるベリーニ女史は、ヒトラーを気に入り、彼に番組を探すようにと部下に命令した。


彼が得意とするのは、その高い演説力としている。彼はその場の雰囲気や特徴を見定め、効果的な方法で訴える賢さがあった。静寂の効果と国民を動かす言葉を巧みに操っているのだ。
 
ここで、国民を動かす言葉には先ほどのセリフでも出てきた「責任」というワード。このコロナ禍においても鍵になる。ヒトラーは責任は自分自身がもつという姿勢をみせている。しかし一方で、「私は計画をわかりやすく提示しただけであり、それを選んだのは国民一人一人」だとも言っている。真の責任は、民主主義のもとヒトラーを選んだ国民にあるというのだ。
 
このコロナ禍において安倍総理が4月7日に行った記者会見を連想させた。イタリア人の記者は新型コロナウイルスの感染拡大から政府の海外と比較。対応の鈍さを指摘し「責任は総理にあるのですね?」と質問をした。総理はこれに対し、「責任を取ればいいというものではない」との発言している。


この一連のやり取りに、批判殺到した。責任はどこにあるのか。失敗したら、責任をとり、総理大臣がやめるべきだという発想だ。

しかし、その安倍総理を選んだのも間接的とはいえ我々、国民なのである。民主主義である以上、民意で決まったリーダーシップなのだ。


ヒトラーは映画の最後にこう言い残している。
「どんなことにも意義がある。好機到来だ」
混沌とし、不安や不満充満しているときこそ、扇動の絶好な機会だ。

我々は気付いたら取り返しのないことになっているかもしれない。

判断力はもう十分、鈍っている。

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