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美しい古都チェスキー・クルムロフとバロック・オペラ                     ~~幻想的な城内劇場とバロック・オペラが創り出す非日常の世界~~    その1 チェスキー・クルムロフ城内バロック劇場の歴史  





はじめに


ボヘミア南部、現在のチェコとオーストリアの国境近くにある古都チェスキー・クルムロフは世界一美しい町として日本人観光客にも大人気ですね。
この町のシンボルとなっている城の一番奥(第5中庭)にはバロック様式で建てられた歌劇場(以下、城内劇場)があり、そこでは毎年国際会議が開かれていました(現在も開催しているかは不明)。
会議の期間中には城内劇場でバロック・オペラが実験上演されました。照明、背景、衣装、演技、機械仕掛け、歌唱、オーケストラもすべてを可能な限りバロック時代のままに再現する試みです。
 


オペラの誕生と発展


オペラはバロック時代の初期、1600年頃にイタリアのフィレンツェで誕生します。当初はオペラ上演用の専用空間はなく、宮廷の広間などで上演されていましたが、やがて宮廷や都市に然るべき機能を備えた専用の劇場が建てられるようになり、技巧と美声を誇る名歌手も次々と現れてアイドル並みの人気を博すようになります。

一般的に女性主役(プリマ・ドンナ)は女性のソプラノ歌手が、男性主役(プリモ・ウオーモ)は「去勢された男性歌手」が務めました。「去勢された男性歌手」のことをカストラート(castrato=去勢された)と言います。教会の聖歌隊のボーイ・ソプラノだった歌手が変声期によって美声を失うのを避けるため、然るべき処置をして美声を保ったのです。正確には彼らは声域に応じてソプラノ・カストラート、アルト・カストラートと呼ばれました。彼等の独特な、性別の曖昧な歌声は特に女性客に大人気でした。こうして、1600年代末までには欧州中でオペラは最大の劇場娯楽となったのです。
 

真正バロック・オペラ復興の試み


バロック時代に人気を博したバロック・オペラは劇場の基本構造、機械仕掛け、照明、背景、衣装、演技、演奏様式など、重要な点において今日のオペラとは異なります。チェスキー・クルムロフの城内劇場におけるバロック・オペラの上演はそれらを現代に蘇らせる大変重要な試みなのです。

私は2004年から2008年までこの国際会議に参加していました。そして、バロック・オペラの実態をぜひとも日本にも紹介したいと考えました。城内劇場のオペラ公演の魅力は劇場、衣装、演技、照明、背景など、すべてが一体となったものですので、本来はそれらを丸ごと提示しなくては本当のバロック・オペラの魅力はお伝えできません。しかし、それは到底無理なことですので、最低限本質的な部分だけを伝えようと割り切りました。

こうして、2009年11月21日、ヘンデル没後250年を記念するヘンデル・フェスティバル・ジャパンHFJの企画として「ヘンデル・オペラの名アリア」という演奏会を実現することができました。


ヘンデル・フェスティバル・ジャパン 「没後250年記念企画」第3弾 チラシ表

チェスキー・クルムロフからは城内劇場でいつも活動を共にしている方々、歌手二人(ソプラノとメゾ・ソプラノ)、チェンバロ奏者(兼指揮者)、チェロ奏者、演出家の5名をお招きし、衣装も城内劇場のものを持ってきていただきました(当時のもののレプリカ)。
この画期的な企画は広く注目され、NHKのBSでも放映されました(「クラシック倶楽部」ヘンデルオペラの名アリア・コンサート)。
 

以下、3回に分けて、2009年のトッパンホールでの演奏会の様子も交えながら、チェスキー・クルムロフ城内劇場での「真正バロック・オペラ」上演の実態をご紹介します。
モダン・オペラとはまったく異なる「バロック・オペラの魅力」を一人でも多くの方々にお伝えできれば、、、。


チェスキー・クルムロフ城内バロック劇場の歴史と魅力


チェコの首都プラハからヴルタヴァ(モルダウ)川を南へおよそ180キロ遡ると、オーストリアとの国境に近い南ボヘミアの古都チェスキー・クルムロフに辿り着きます。
この町には蛇行するヴルタヴァの地形を利用して、断崖の上に城が建てられています。
プラハからは鉄道かバスで行きますが、私が訪れた頃はバスの方が町の中心部に近く便利でした(15年も前ですが)。

チェスキー・クルムロフ市街


バス停から城を望む
右に高く聳える塔は城のシンボル
一連の建物の左手、白壁部分が城内劇場
下にはヴルタヴァ(モルダウ)川


美しい街並み
ヴルタヴァ(モルダウ)川


素朴な味わいのあるチェコのマグカップ


1675年、当時の城主、エッゲンベルク家のヨハン・クリスティアン1世が城内のDeer Hall「鹿の間」に演劇や音楽のための舞台を設けました。クリスティアン1世はその後、1682年頃、第5中庭に初めて専用の城内劇場を建設しました(第1劇場)。クリスティアン1世はイタリアにも領土をもち、頻繁にイタリアに行っていたため、オペラへの関心が強かったのです。
城の構造は第1中庭Courtyardから順に崖に沿って上方に建物が並び、最後が第5中庭となり、ここに劇場が建てられています。


城の全体図




第1中庭から見た塔

第2中庭から第3中庭にかけては勾配が急で、宮仕えはさぞかし大変だったろうと思われます。

第2中庭から第3中庭への急勾配


 
1710年にヨハン・クリスティアン1世が没すると、後を継いだシュヴァルツェンベルク家の当主は劇場に無関心でしたが、その息子ヨーゼフ・アーダム公は芸術に関心が深く、成人して実権を握ると、1766年、同じ第5中庭に劇場を新しく建て直しました(第2劇場)
 

中央白壁が城内劇場
城内劇場入口


 
この再建時、ウィーン宮廷から招かれた建築師や画家たちが劇場の設計から装飾のすべてを「18世紀初期のウィーン様式」で統一しました。これが大変重要なポイントなのです。城内には機械装置、背景、大道具、小道具、照明、衣装なども当時のまま保存されていますが、そのすべてがバロック時代のウィーンの劇場文化を今日に伝える貴重な文化遺物となっているのです。
同じ1766年にスウェーデンのストックホルムにドロットニングホルム宮廷劇場が建てられているのですが、こちらは内装がバロック様式ではなく、次の時代の古典様式となっているのです。


1783年にプラハに建てられたスタヴォフスケー劇場もバロック様式でなく古典様式に依っています(この劇場はモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》や《ティート帝の仁慈》の初演劇場としても有名ですし、映画『アマデウス』のウィーンの劇場場面もこの劇場で撮影されています)。

クルムロフの城内劇場のようにすべてがバロック様式で統一された劇場は極めて希少なものでしたが、その後この劇場は20世紀の大戦や、その後の共産党支配のもとで大きく損傷します。しかし、1989年の解放後、懸命な修復作業が行われ、現在はほぼ元の姿に復元されたのでした。
そして、2002年からは毎年6月に国際会議「バロック劇場の世界」International Conference “The World of Baroque Theatre”が開催されるに至ります(現在も継続されているかは不明)。
この国際会議では、劇場の建築、機械仕掛け、照明、装飾、塗装、衣装、大道具、小道具、演技、台本、音楽まで、劇場に関わるあらゆる問題について、研究発表が行われていました。会議の初日の晩には、城内のバロック劇場において、オペラが実験上演されていました。上演された主な演目は、A. スカルラッティの《寛大な愛》、ヘンデルの《ソザルメ》、カルダーラの《アフリカの大シピオーネ》、ヴィヴァルディの《アルジッポ》などで、舞台、装置、衣装、演技、演奏のすべてが可能な限りバロック時代そのままに再現されています(指揮:オンジェイ・マツェク、演出:ズザナ・ヴルボヴァ)。


序曲
合理的な屋根型の長譜面台
本物の蝋燭
楽士の衣装も当時のデザイン

私はこの会議に参加するたびにオペラ上演を観る機会を得ました。ほの暗い劇場の中で、ピットの木製ベンチに身を置くと、いつの間にか18世紀にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えました。その甘美な錯覚の中でひとつのことが推測から確信へと変っていきました。当時の聴衆が熱狂していたのは、歌手の美声や技巧ばかりではなかったのです。間違いなく彼らは、ほの暗い蝋燭の灯り、機械仕掛による目も眩むような場面転換、豪華な衣装、優雅な演技(バロック・ジェスチュア)、古楽器の典雅な響きが一体となった非日常の幻想世界に酔い痴れていたのです。 

以下、その2、その3へと続きます:

II 城内バロック劇場の構造
https://note.com/17440210semele/n/nb2268f30f6c2

III  場内劇場とバロック演技(ジェスチュア)
https://note.com/17440210semele/n/n7e8d1103342b


関連記事等
三澤寿喜:「幻想バロックオペラの神髄」朝日新聞2006年6月30日夕刊(首都圏版)

三澤寿喜:「チェスキー・クルムロフで行われた「真正バロック・オペラ復興」の試み」(『グランド・オペラ』2006年秋号、音楽之友社

三澤寿喜:「チェスキー・クルムロフ城内劇場「真正バロック・オペラ」について」:2009年11月、第7回ヘンデル・フェスティバル・ジャパン 企画3チェスキー・クルムロフ城内劇場 真正バロック・オペラ招聘公演「ヘンデル・オペラの名アリア」プログラム・ノート






 

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