2024.8.18 憧れとグロテスク

グロテスクな人が好きだ。
「生きている」感じのする人。好みも苦手もその時の感情もちゃんと持っていて、何かに対して燃えていたり葛藤していたり喜んでいたり、そういう感情をちゃんと持っていて、見せてくれる人がとても好きなんだと、21歳になる年になってようやく気づいた。
自分は何者で、何になるべきで、どうするべきか、考えて踠いている人が好き。さらりとこなせてしまう人に憧れてそうなれるように努力してきたつもりだったけど、でも自分が好きな人はもっとグロテスクな人なんだって、気づいてしまった。このグロさ、わかるだろうか、分からなくても良いんだ、でもわかる人は少しだけ、私の好きな人に似ているのかもしれない。

「自分が無防備な時ってどんな時?」

最近聞かれた質問だった。周りの友達は「寝ている時」とか「お風呂の時」とか「散歩をしている時」とか、だった。どれもわかるようで、でももっと上手く無防備を表す言葉があるような気がして、家で一人考えていた。シャワーを浴びて、寝転んで、テレビでYouTubeを流しながらインターネットを彷徨い、読みかけの本をめくった。どれも無防備、でもこれをしている時イコール無防備というのはどうもしっくりこなかった。ぼんやり考えて、あ、となった。その空間に誰がいるか、に無防備が制御されているのだ、と思った。
友達といる時、家族といる時、バイト中、街を歩く、イベントに出る、、これら全て、周りに人がいる。人がいる時の自分はいつの間にか、「その人がいるときの私(わたし)」を演じているのだな、と思った。例え気の許した家族や友達であっても、である。その人の前ではその人に見せる私になっている。完全に空間に一人になった時、私は初めて私の無防備を出せているのだと思った。良いのか悪いのか分からない、でもグロテスクとは違う、きっと

それでも人間だから放つ 世界を知って欲しかった 人間でいたかった

MAPA「絶対運命ごっこ」

人間でいたかった。
もっと私が私でいられたら、もっと無防備な私を外に出せるような、敏感さを少しでも鈍らせられたら、自分の敏感さに助けられたり見せてもらった綺麗な景色もたくさん、でももっと人間になれていたら
人より超越した思考回路、人と違くても広げていった言葉、全部大切で好きなはずなのに、でもそれを無防備にさらけ出せる環境は少なくて、こそりこそりと頭で思ってはノートに書いて、それを引き出しにしまって、小学生も中学生も高校生も、きっともう、人間じゃなかった。

グロテスクになりたかった。
グロテスクに憧れてしまった。

その事実が何よりもグロい。

全部気づいてしまう、愛も世界も、優しさも、
君が優しいってすぐ気づいちゃうから、あーあ また自分のこと無防備に出来ずに私をわたしにしているんだ、でもそれが私でその私のこと好きになっちゃってるから、もう戻れないな、あー

憧れとグロテスク、相反しながら交差して、重なって、それが私
痛みも愛に、祈りを君に
届けていきたい 何年先もずっとずっと

生き様

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