2024.8.1 歪がかわいい 庭

どうやら私は、周りと少し違う感性を持っているかもしれない
なんて、気づいてしまったのがたぶん中学生。空想好きでいつでもファンタジーな脳みそのまま、それを誰にも否定されずにふわふわ生きていたけど、中学生になって他の小学校の人たちがたくさん集まる学校に通うようになって、自分みたいにふわふわした思考の女の子はいなくて、私だけなんだな、と気づいた瞬間が確かにあった。そういえば小学校のときから、空にうかぶ雲の形がアヒルみたいだって喜んでたのも花を摘んで帰れる通学路の高校に通いたいな、なんて思っていたのも、いつか魔法が使えると信じていたのも、私だけだった気がする。気づいてしまった。ああ、異端なんだ、とやけに冷静に思った。
中学生にとって人と違うということは、つまりこの世界にいられないということになる。まだ狭い狭い私の世界、たった10数年しか生きていない世界から追放されるのはあまりに恐怖で、異端な脳であることが出来るだけ周りにバレないように、まるで雲にも花にも魔法にも興味がないみたいな、ファンタジーは現実にないことを初めから知っていたみたいな、そんな顔で中学生をした。
高校生、変わらずにシャープな世界だけを知っているみたいな顔をした。そういうアニメや本は好きだよ、なんて、普通な顔。それでも私の心は、急にこの花が喋り出すんじゃないか、いつかヒーローに変身させてくれる妖精が現れるんじゃないか、私の指先からキラキラした光が飛び出したりして、という思考でいっぱいだった。その当時の社会はプラスチックのストローがどんどん紙ストローに変わっていっている時代で、でもプラスチックのストローを無くしたくらいでプラスチックがこの世から消えるわけないじゃん、無くしたプラスチックストローぜんぶ集めてオーボエのリードみたいにみんなで吹いて遊べばもうちょっとたのしい世界になったりしないかな、なんて出来もしない思想で頭の中を埋めていた。まわりの友達がTikTokとYouTuberとメイク動画にハマっている中、社会問題をアートにしていく人とアクリル画の動画にハマりながら生きていた。それでも、高校という世界では流行りの歌とアニメとドラマの話をした。歪を隠す、癖ができていた。
大学。芸術大学に入学した。授業内容が今までと全く違った。VRゴーグルをつけた人たちが大量にステージに乗っている海外のオペラの映像や、光の色だけで目の前の景色をモノクロにしてしまうアーティストや、言葉を一切使わないでくるくる舞い踊るダンサーに、出会った。今まで私だけが面白がっていたギリシア神話の戯曲を、同じように面白いね、と言う人が、当たり前に同級生にいた。何かを踏む音をとにかく調べたり、りんごを齧る音にものすごくこだわってみたり、躊躇なく自然の中に飛び込んでみたり、あえて子どもに戻ってみたり、そういうクリエーションをたくさん出来る環境があった。高校生のとき、浮いてたんだよねーって話していた人もいた。社会のことをたくさん考えて、全てアートに落とし込むことに全力を尽くせる場所が嬉しかった。昔から歪に生きていた私と、同じように生きてきた歪なひとたち、そんな私たちがつくる歪で楽しい庭が、あった。文化芸術がこの世に存在していることで、もしかしたらこういう歪さが、あるときはおとなを、あるときはこどもを、あるときは障害のある人を、お年寄りを、女性を、陽キャを、陰キャを、その他いろんなひとを、助けてあげたり救ってあげたり解決してあげたり、してあげるものになるかもしれないな、なんて思えるようになった。作っているわたしたちは歪だ。でもきっと歪だからできることも、ある。
わたしの生きる、歪な庭。歪なわたしたちのお祭りが、ただただ愛おしい毎日を過ごせることが何よりも幸せで満たされている。きっとこれからも

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