見出し画像

超次元的実戦川柳講座 X–3 「ニューメディアは川柳の夢を見る・川柳はニューメディアの現を見る」

 
 元気ですかーっ。まだコロナの後遺症がそこはかとなく残っている川合がお送りします、超次元的実戦川柳講座です。今回、先日行われた「世界がはじまる十七秒前の川柳入門」第2期第1回をベースにしつつ、補足を入れていきたいと思います。「世界がはじまる十七秒前の川柳入門」、通称 #せか川 についてはこちら→https://sekasen.peatix.com
 で、あくまで、この講座は「いかに川柳を使いこなすか」ということですから、「現代の」いちばん川柳が活況を呈している場であるSNS、そこにおける「川柳」について考察してみましょうか。
 そういうわけで、今日はまず、「川柳の成り立ち」と、「新興川柳」と、「現代のSNSにおいて展開されている川柳」との比較から、メディアにおける川柳のありかたということ、さらにニュー・メディアにおいて「わたしたちはどこに想像力を置いて川柳を作っているのか?」ということを考えてみます。やや以前の講座と重なる部分も多いかと思われますが、復習も兼ねて。
 


1.川柳が立ち上がる  

 まず、「川柳」の起源にさかのぼります。
 ここで江戸時代のいわゆる「古川柳」に起源を定める人と、いや今の川柳というものは明治になってからはじめて形を成したんだ(のちに述べる阪井久良伎、井上剣花坊による「新川柳」運動)、だから川柳は明治時代にはじまる、という二つの意見があります。今回は、「メディア」ということですので、それが成立した(と、とりあえず仮定しておく)江戸時代からまず見てゆこうと思います。
 柄井川柳、という名前はご存知かと思います。その名前から「川柳」というジャンル名がつけられたということも。
 このあたりの「川柳」の発生については以下を参照してください↓

 超次元的実戦川柳講座 X-0「世界がはじまる・そして川柳をはじめるひとに」

 ここでは、その「川柳」の受容の仕方について見てゆきます。
「前句付」のイベントである「川柳評万句合」がありました。
 この入選句を印刷したものって、瓦版みたいに刷物として仕立てて、参加した人だけに配るという、まあ同人誌的な体裁だったのですが、転機が訪れます。
 この「万句合」を書籍化したものが、『誹風柳多留』として出版されたのです。ちなみにプロデューサーは呉陵軒可有。結構謎の人なんですが、「川柳」のプロデューサーとして歴史に名を残している人です。
 で、この『誹風柳多留』がベストセラーになって、「川柳評万句合」がますます盛んになって、『柳多留』はますます売れて、という相乗効果でいつしか「前句付」といえば「川柳点」とか「川柳句」と呼び習わされるようになりました。これがいつしか「川柳」として定着したわけです。前も言ったけど、ラジオの投稿コーナーに、DJの名前が付いて定着したのと同じようなノリですね。
 まあざっとした流れですが、この運動体って、「郵便」と「印刷」という当時の「ニューメディア」によって支えられていた文芸だったわけです。
 実際に句を集める時って、最初の頃は取次所があって、そこが句をまとめて川柳さんに送る、というかたちを取っていたのですが、回を重ねるごとに、もっと自由に「投稿」がなされるようになりました。
 そして、投稿されたものが「本」として書店にならぶということ。これはかなり革命的な出来事であったと言えます。
「何者でもない」投稿者が、大衆に向けて作品を発表できるということ。これは、「メディア=媒介するもの」というものの発生と言って良いかと思います。
 どんな句が「川柳」として発表されていたのか。ちょっと見てみましょう。

 
 手のくぼに吹きがらをして田舎道
  
 この題の77、「なぐさめにけり なぐさめにけり」が点者から出された課題になります。この「なぐさめにけり なぐさめにけり」にいかに面白い575を付けられるか? ということを競っていたわけです。
 で、この句なんですが、吹きがら、というのは煙管で吸った吸い殻。それを「手のくぼ」つまり手のひらで転がして田舎道をゆく、という状況なわけですね。熱さをガマンする遊びをしていたわけです。ここで、この575だけだと、「火がうまくつかない」という意味にも取れますが、「なぐさめにけり」に「付ける」ことで、無聊を託つ心情を詠んだ句になるわけです。「なぐさめにけり」に付けたことによって、「手慰み」という意味が付加されるので。
 もうひとつ見てみましょうか。
 
 密夫とはひざへ上りしねこで知れ
  
 密夫とは間男のこと。間男が、夫婦ふたりで居る家にやって来る。そこへ、飼っている猫、それも滅多に人に懐かないはずの猫が間男のひざに上がる。これは奥さんと密夫がそうとう陰でいちゃいちゃしていたな、ということがわかる。という意味の句です。
 で、これって一目でこの状況がわかるか?って言ったらわかんないんすね。かなり複雑な構造を持った句で、解説がなければ(少なくとも現代に生きる私たちには)「わからない」。
 んで、「わからない」ということは「わかる」時のカタルシスがすごいあるわけです。「わかる」という現象は、まず一見して「わからない」という状態が前提されているわけですから。この「わかる」=「わからない」の運動が、「川柳」というジャンルを支えていたひとつのベースだったんじゃないかな、と見て取ることができますね。
 そこで考えてみたいのが、この句が「投稿作品」であったと言う点です。無論点者(選者)の選を受けるわけだから、点者に向けた句ではあったかもしれない。でも、点者の向こうにある、不特定多数の「誰か」に対して、この句は向けられている。「自分が顔を知らない」大衆に向けて句が発信されている。
 この、掲句のような一見わからない句において、「わかる」ことによる「動き」が句の中に想定されているわけです。「この句を読んでくれる」という信頼が、句を作る想像力にベクトルを与えていたことになるとも言えます。
 で、この信頼って何かって言ったら、それは「コミュニケーション」なわけです。それも大衆に向けた「マス・コミュニケーション」。それが「メディア」というものの発生において出来上がったものだ、ということは結構肝なので覚えておいてください。
 で、メディアの変容って、「人」を変容させるんですよ。「マス・コミュニケーション」によって人が感じることって、「この世に自分はひとりではない」という認識だと思うんです。それは裏を返せば「この世には自分はひとりである」という個体意識のあらわれでもあるんですが。
 このへん突き詰めてゆくと、明治以降に発生したと言われる「近代的個人」というものの萌芽が、「川柳」というジャンルを見た時に、すでにあらわれている、と言えるかもしれません。これは個人とメディアとの関係を見た上なんですが。まあこれはあくまで単なる仮説なんで、どこか頭の隅に置いておいてくだされば大丈夫です。ちょっと脇道に逸れました。
 で、この江戸時代の「ニューメディア」にはもう二つポイントがあって、一つは無名性、もう一つは「書籍化」ということです。
『柳多留』にしても、「作者」の名前が「作家」として載ることはありませんでした。無論ペンネームは載っていたのですが、「作家」性というものは薄かった。無名の作者が、無名の読者に対して発信していたわけです。
 無名の作者→点者→読者 という流れが出来ていました。ここにおいて、マス・コミュニケーションは成立していたけれど、「特権的な作者」はまだ存在していなかった。このすぐ後で見る「新興川柳」とはそこが大きな違いです。
 もう一つ、書籍化がなされていたということ。ここで、同人誌から商業ベースの商品に飛躍するということ。ここの「動き」は時代が変わってもずっと「川柳」を制御してゆくことになります。これは「現在」のニューメディアに至るまで貫かれる運動なので、また言及しようと思います。


2.川柳が二足歩行をはじめる

 
 では、時代を少し進めます。明治期になって、阪井久良伎や井上剣花坊が「新川柳」という運動を起こしました。江戸期からの「言葉遊び」の「川柳」を否定して、文芸として成立する「川柳」を立ち上げてゆこうとする運動ですね。これは正岡子規が「俳諧」を「俳句」に変革した運動に影響されていますが、その辺は今日はすっ飛ばします。これから見ておきたいのは、その「新川柳」からさらに時代が経ち、大正から昭和初期にかけて恐竜的進化を遂げた「新興川柳」運動についてです。
 例として川上日車(かわかみ・ひぐるま)の句をいくつか挙げておきます。



 
 錫 鉛      銀
 と 書いてあつた 脅かしやがる
 数字にも  淋しい数字
 ウヰスキー世界の扉みんなあき
 生殖器ばかりになつて生き残り
 これで大丈夫と蓋をしめる
 鍵 わたしにそんなものはいらない
 私にきまった顔がない  鏡
 厠にゐたら出たよ・念佛
 絵巻ひらけば黄河の流れ支那を貫き
 皇紀二千六百年煙幕のうちに絵巻とざしぬ
 猫は踊れ杓子は跳ねろキリストよ泣け

 一例として挙げました。無論、「これ」ばかりじゃないんだけど、「この傾向」の川柳が大正〜昭和初期に作られています。当時のダダイズムとかプロレタリアとかのハイブリッド川柳ですね。なお、有名な鶴彬もこの「新興川柳運動」のなかのひとりとしてカウントされます。
 で、これとさっきの「古川柳」の違いなんですが。
 まず、「作家性」というものがここにはありますね。作家がまずいて、それが「読者」に向けて句を発する、という、いわば支配関係。作家が「権力」を持っていた時代の産物と言えるかもしれません。
 ここで「メディア」の側面から見るとすれば、活版印刷によって、「印刷」というものがより速度と範囲を高めた。メディアが人を取り囲む力が増したわけです。
 無論、江戸期のような「大衆」が「大衆」に向けて作られた句の構造も在り続けていたわけですが、その中で「特権的な作者」というものが「読者」を支配する、という構図も発生したわけです。これは、「メディア」というものに「作者を作者として表現しやすくなった」という現象があると見て取ることができると思います。「メディア」へのアクセスのし易さが、「作者」というものを産んだ、ととりあえずは定義しておきます。
 その上で句を少し見ておくと、
 
  錫 鉛      銀

 という句には、「わかる/わからない」とは別のベクトルが働いていることが見て取れます。「想像の共同体」に参入するのではなく、みずからが「想像力の基盤」を作り出そうとしていること。これはある意味で、「作者」が「読者」を裏切っていることになります。ある意味で「読者」の期待に沿うものをつくっていないわけですから。ただそれは同時に、「読者」というものの存在を信頼している——読者がそこにある、ということを信じている——ことになります。
 これ、作者が読者に対して権力を振るっているように見えますが、逆を言えば読者がいなければ作者も存在できないはずです。作者は読者に向けて語るのだけれど、読者が支えなければ作者として存在することができない。
「新興川柳」は第二次世界大戦とともにに消滅しました。詩歌に対する、当局の弾圧があったのはもちろんですが、「新興川柳」のなかに、崩壊の要素が孕まれていた——「作者の死」という現象とややパラレルな様相で——ことが大いにあったと思われます。それは同時に、「読者の死」であったのかもしれません。少なくとも川柳においては。
 その後の川柳のムーヴメントとして、「句会」がメインになる状況が続きます。句会のなかで、たとえば、
 
  妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬
  
 みたいな句が産まれ、しかし句集としてはなかなかフィードバックされない状況が続くことになりました。 
 句会という「場」。連句という「場」とも違う「場」において、人々が「納得」をしていたわけです。読者が存在しなかった世界と呼べるかもしれないし、ここに選者という「検閲」があったことは重要なことかもしれません。個人が個人として成立する時、そこには「検閲」による統御が必要だったわけです。物理的/精神的な意味で。これは「個人」という概念が「現代」の今と違っている、と恐る恐るながらですが、言ってしまって良い証拠だと思います。
 ということで現代、今SNSで飛び交っている川柳を見てましょう。
 

3.川柳たちが群棲をはじめる

ここから先は

5,513字

¥ 770

もしお気に召しましたら、サポートいただけるとありがたいです。でも、読んでいただけただけで幸せだとも思います。嘘はありません、