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超次元的実戦川柳講座 X-4  「現代川柳から現在へ・現在から現代川柳へ」


はじめに

 ハッピーハロウィーン! 川合です。腰痛が痛くて(まちがった日本語)、ろくに椅子にも座っていられない状況で書いてます。ハロウィーンなんか知るもんか。謎の拗らせ。
 というわけで今回もzoom川柳講座「世界がはじまる十七秒前の川柳入門」を基に、補足的な説明をしてゆきたいと思います。あ、「せか川」を受講していないかたでも読み物として読めますんで(これはまちがった日本語だろうか)、ご安心ください。興味があったら「世界がはじまる十七秒前の川柳入門」も覗いてみてね。ていうか受講者募集中。ご興味ありましたらこちら→世界がはじまる十七秒前の川柳入門

 さて、ここは「実戦」川柳講座ですから、「では、具体的にどう書いてゆけばよいのか」というあたりに触れてゆきたいと思います。そのために、前半(無料部分)、理論的な話になります。やや生硬なテクストになるかもしれませんが、エンタメと思って楽しんでいただければ幸いです。
 今日は、「現代川柳」の「現代」に「川柳」はどう接続されるのか? というのがメインテーマです。その前段階として「現代」は「現在」とどうつながっているのか? を考え、そして「現在」をあらわす「川柳」の文体はいかなるものか? ということを見てゆきましょう。具体例として、石田柊馬、ササキリユウイチの句を挙げます。
 これは今後の川柳講座のなかで、基礎になってゆくことがらなので、やや説明的になります。具体的なテクニックについては今日も少々触れますが、次回以降また掘り下げてゆきます。

 なお、前回の講座はこちら→超次元的実戦川柳講座 X–3 「ニューメディアは川柳の夢を見る・川柳はニューメディアの現を見る」
 これまでの講座をまとめたマガジン→別冊・非情城市

1.「現代」川柳にまつわるエトセトラ(理論編)

現代川柳とは何か

 さて、「現代川柳」とは何でしょうか。
 小池正博『はじめまして現代川柳』によれば、河野春三と中村冨二からはじまった、と仮定されています。以下の引用文中の「天馬」とは河野春三の出していた川柳誌です。

「天馬」二号(一九五七年二月)の座談会で春三は「我々の作品を今後、現代川柳という呼称に統一したい」と発言した。いろいろ議論があったようだが、「現代川柳」は「革新川柳」と同じ意味で使われるようになる。「現代」は単に今の時代というのではなくて、「革新」というバイアスのかかったものになる。

『はじめまして現代川柳』P301、小池正博


 はい。今いろんな人たちがやっている「現代川柳」はだいたいこのイメージですね。尤も、「現代川柳」の「現代」がださい、と言う人々も確実にいます。今この世界で作っているのだから、わざわざ「現代」と銘打たなくても「現代」のものには違いなかろう、という論調です。私はこの意見には半分賛成です。
 これ、あくまで私の感覚なんですが、「現代川柳」というとき、「現代」という言葉に違和感を覚える、というより独自の「重さ」を感じてしまうことがあるんですよ。
 それはもしかしたら「革新というバイアス」によるものかもしれません。「革新」が「革新」で無くなったのが21世紀、と言えるかもしれません。いやそれ言うためには80年代のポストモダン、あの滅茶苦茶に汚かった90年代の世紀末に言及しなきゃいけないんだけど、ここではそれはやりません。
 ただ、「革新」というのがひとつの鍵にはなると考えていて、ここでは「革新」を未来志向、と大雑把に捉えておきます。
 

常に「遅れ」てくる川柳

 では、「未来」を目指す川柳には何が起こるのか。
 まず結論から言うと、「川柳は常に遅れて来る」のです。
 なにか句としてつくるためのαがあるとします。このαを「書く」あるいは「詠む」という行為は、つねにαの「後から」、「書かれた」「詠まれた」ものになります。
 それは当たり前の話で、何かを作る、ということは、「作られた」時間の経過によって、つねに「作りたかった」ものに対して後出しジャンケンになるのです。
 たとえば、「腰が痛い」ということを書く、としましょう。私は腰が痛い。ならば「腰が痛い」と書く。ここに書かれた「腰痛」は最初に書こうと思った「腰痛」でしょうか。否です。私が「書く」といういとなみをしたことによって、その「腰痛」はすでに過去のものとなっています。痛みを感じる・痛みを文章としてまとめる・その文章を入力するという「時間」が経過してしまうのです。「書く」という行為が生み出す時間差。これが「遅れ」です。
「川柳を書く」ということは、「川柳に書かれたもの」から常に「遅れ」てやってくる、とはそういう意味です。
 この「遅れ」あるいは「遅延」についてはE.フッサールあたりを参考にしてみてもいいかと思います。この「遅延」をさらに進めていくとあの有名なJ.デリダの「差延」になりますが、さすがにそこまでは今日はやりません。
 で、「革新」をめざす以上、その「作る」対象はつねに未来を向いている。ならば一層、「作られた」時点において、川柳はその「遅れてきた」ことを明示するのではないか? という仮説が建てられるわけです。
「現代」というものはこうしたメカニズムによって成り立っています。現代は、「今、ここ」には存在しない。われわれは常に「現代」に遅れてやって来る。しかし「現代」を作るものは、その作るという行為において、何かを「書く」ことによる「現代」の成立をさせていることになります。「現代」という「時代」が延々と何十年、もしくは何百年、何千年と続いているのは、つねに「現代」がこのような「過去」を含むから、とも言えます。
 で、「過去」というものは恒常的に潜伏していて、普段のわれわれの目には見えないわけです。むしろ見えないことによって「現代」を成り立たせていると言ってよい。われわれはずっと時間のなかに居るし、「時間」というものを意識するのはひとつの「死」に近いわけですから。対象の「過去」であることを覆い隠すために、「現在形」が使われると言えるかもしれません。
 川柳に目を戻すと、川柳に使われる「いま・ここ」性、(たとえば「〜ている」で終わるような)「現在形」というのは「過去としての出来事」を覆い隠すための現在形、と呼べるわけです。
 ならば、「現代」を考える上で、「現在」をどう書くのか? という方面から光を当ててみることもひとつの手段です。
 この場合、

 a.現代=過去を含むもの。先立って存在する対象
 b.現在=過去を潜伏させるもの。後から遅れて来る表記

 という区分けのもとに話を進めてゆきたいと思います。「現在」を川柳がどう書くか、ということを見た上で、「現在」が「現代」に転化する瞬間を捉えられれば、とあたりを付けて進めてゆきましょう。

「現在」をつくるための定型

 まず、ざっとした定義として「現在をつくるための定型を川柳と呼ぶ」としておきましょう。
 この時、定型はなぜ「現在」を作るのか、ということを考えてみたいと思います。定型の定型性とは、言葉をパッケージングすることです。ある対象をあてはめる、と言うこと。これはパッケージされるものが、「すでに在った」ということの証拠に他なりません。ある「型式」は「型式が在る」ことによって、常に「現在」に先回りしています。これを「現在」の側から言うなら、「現在」は「型式」の後から遅れてやって来るもの、といえるでしょう。
 ならば「型式」を「時間」に触れさせること。これが「現在」の発生であり、ひいては「現代」へのアクセスになるはずです。「型式」が「時間」に触れるとき「現在」≒「現代」が発生する。
 その仮定のもとに、「型式」と「時間」の接触の仕方を見てゆきます。
 具体的な句を引いて、そこでどのような技術が「現在」をあらわすのに使われているか、検討してみようと思います。

2.「現代」川柳にまつわるエトセトラ(実戦編)


 まずは石田柊馬の句集『ポテトサラダ』から。ちなみにこれ2002年発刊なんですね。柊馬さん、まぎれもなく「21世紀のひと」であったわけです。 

姉さんはいま蘭鋳を揚げてます/石田柊馬

 この句の「いま」を「いま」と言う必然性はあるのでしょうか。「いま」というものが自明であるとすれば、「いま」と言及する必要はない。逆を言えば、「いま」と言ったことにより、この句の「いま」性が怪しくなってくるのです。この「いま」は虚構であり、虚構によって覆い隠される何かがあるはずなんです。それが「いま」は「いま」より遅れて現れたものである、ということはもうお察しの通りです。
 さらに「姉さん」「蘭鋳」という言葉のベクトル。
 まず順番は前後するけれど、「蘭鋳」について。なぜ「姉さん」の「揚げて」いるものが「蘭鋳」とわかるのでしょうか。普通蘭鋳は揚げませんよね。姉さんがいま揚げている物体が蘭鋳。このことを理解するのには、作者がすべてを見通した視点が必要となります。「神の視点」というやつです。それが「神」であるかどうかは置いておくとして、「俯瞰」はしていますよね。このことはすぐ後でもう一度言及します。
「姉さん」。姉さんというのは、「わたし」との関係において成り立つ他者です。「わたし」との関係を、誰かに見せなければならない。その誰かに、あるいはどこに向けて表現しているのでしょうか? この「どこ」というのが、さっき言った「神の視点」に向けて能動的になされた表現であると言ってよいかと思われます。ならばここにおいても、「俯瞰」はなされているわけです。
 単語の選択による俯瞰。この技法は重要なので覚えておいて損は無いと思いますよ。なお、「俯瞰」だけではなく、単語の選択によって、「その句にあらわしたいことをあらわす」ことが、かなりの射程まで可能です。やや脱線かもしれないですが、付言しておきます。
 で、「揚げてます」の「てます」。これは「てます」という宣言をなされているわけです。これは「蘭鋳を揚げてます」という「対象」の宣言であると同時に、次元を一段階上がって、「これが語りであるという宣言」になっています。「これは、いま語っています」という宣言。
「姉さんが」「いま」「蘭鋳を」「揚げてます」という「語り」が「型式」におさまっていること。これは先ほども述べたように「いま、ここではない」ことの明示でもあります。「型式」にすることによって「現在」というものは「対象」から遅れて来ることになりますから。
 だからこそ、あざやかに「現在」というものが顕になるわけです。
 このことを踏まえて、この句は「現代川柳」、「現代」の「川柳」と言えます。
 さらに言うなら、この時間意識の有無が「現代川柳」/「伝統川柳」を別つポイントになってくるのではないか? と仮定を立てておきます。この仮定はあくまで仮定なんですが。
 もう一度整理してみましょう。「俯瞰」がありました。「俯瞰」というのは何かと言うと、「過去」までを含んだ視点ということです。「いま」によって「俯瞰(過去)」は覆い隠された。しかしそれによって「俯瞰(過去)」はかえって強烈にあらわれてくる。そこから、「遅れて来るもの」としての「現在」があらわれてくるわけです。
 
 現在という覆い隠し——過去の噴出——過去という型式の現在
 
 という流れを立てることもできますね。
 もう一句、『ポテトサラダ』から。

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