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デヴィッド・ボーマン船長は2022年を旅しない〜川柳ノート

1.孤独なる群衆

 ことあり!(今年もありがとうの略で)らいよろ!(来年もよろしくの意で)などとナウいトレンディなワードをユーズしてしまったが、ご覧の通り私は既に化石である。化石、という表現を使う自体化石なのだが、それを掘り下げていくと自己言及の無限連鎖に入り込みそうなのでしない。
 それはともかくとして、2022年ももうすぐ終わる。終わったら再放送すればいいのに、と思うくらい、世情は腐敗と混沌のなかにあるが(いや、だからこそ)川柳界はおもしろい年だった。
 別に今年の回顧録とかそういうことをしたいわけじゃない。第一私の能力とか、ニーズとかは別のところにあるはずで、今年が川柳にとってエポックな年であったとしても、でもそんなの関係ねえ。またしても死語を使ってしまったが、このギャグ、「でも」が入ることによってかすかに存在を際立たせていた気がするんだ。何の話だ。いやまあ、だから独りよがりの戯言と思ってくれい。
 今年世を騒がせた句集は主にこの四冊。
  
  暮田真名『ふりょの星』 
  平岡直子『Ladies and』 
  なかはられいこ『くちびるにウエハース』 
  ササキリユウイチ『馬場にオムライス』
 
(なお、小池正博『海亀のテント』に関しては2023年の句集、と呼ぶべき内容と時間なので、ここでは置いておく。非礼かもしれないが、また稿をあらためたい)。  
 個々の句集について細かく述べることはしない。と言うか、「個々」という取り上げ方を、それぞれの書がそれぞれのやり方で拒んでる感じがするんだ。何となく。これ、四冊がそれぞれリンクしているというわけではなく、むしろ一冊ごとに「世界」を「拒否している」感じは受ける。この世界とのリンクを断ち切っている句集。
 四冊とも濃淡はあれ、その断絶ぷりが魅力ではあった。しかし、その「句集」の世界の拒絶っぷりに、「評」というものは機能を停止する。それはそうで、「評価」といういかにも曖昧な行為を、はじめから凍結させるシステムを、四者が四者とも会得しているのではないか。
 さっき世界とのリンクを断ち切っている、と書いた。そもそも句集とは何か。これを考えると「句」とは何か、まで原子論を展開することになる。
 で、ちゃっちゃと展開すると、「句」とは「世界のやりなおし」である。ものすごく乱暴に言いました。乱暴なんだけど、いま、ここで私たちが居る・見る・生きる世界がある。ここは「ある」、ということにしておこう。この「ある」を自分の専有物にするのがいわゆる文芸だった。
 ならば5・7・5の(無論別の調べも含めて)定型である「川柳」において、「世界がある」ことを「自分の世界」として折り畳むことは、文芸としてごくまっとうなやりかた(=世界のやりなおし)ではないか。それはそうだ。だが考えておきたいのは「17音」という枠が存在してしまうことだ。
 不思議ではないだろうか。なんで川柳を書く人間は、わざわざ17音、なんていう枷を自らに嵌めるのだろうか。17音だからこそ言えることがある、という言説はある。だが、17音では言えないことが、確実にある。言えないこと、あるでしょ? やってみれば、あるいはやらなくても、わかるでしょ? この言えないことがある、ということに今年は徹底的にこだわろうとした年だった、と言えるかもしれない。誰が? この四つの句集の作者、それは「川柳をつくる人間」すべてによってである。私も末席に含めて。
 17音、5・7・5では言えないことがある。
 その不可能性を、私たちはもっと大事にしようとしている。人は手に入るものより手に入らないものをだいじにするからだ、という事実もまず一因としてある。だが、実はもっとラディカルな問題かもしれないのだ。
「言えないこと」があることによって、「言えること」があやうく存在を許されている。
 構図とすれば以上のようなものだ。「これは〜ではない」ことによって「だから〜である」という消極的な積極性。
 それは、人の「世界の認識」そのままではないのか。だから川柳は「世界をやりなおす」ことによって、世界を書くものであるだろう。このテーゼは揚げた四冊の「世界を拒む」という姿勢にも貫かれている。いやこれ私が勝手に言ってるだけなんだが。
 個々の句集には触れない、と言ったが、なかはられいこ『くちびるにウエハース』について少し。この句集は「世界が言葉を失った」、すなわち「世界を失った」あとの回帰としての言葉だ。有名な、

  ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ/なかはられいこ

とは9.11、「ワールドトレードセンター崩壊」という未体験の事象に人が絶句していた「言葉を失っていた」頃、対応する言葉をいち早く探した結果としての表現であった。
 ここで、「表現できないもの」によって「表現できるもの」が規定されると言うメカニズムがあらわになる。17音だから言えることがある、のではない。言えないことがあるから言える表現があるのだ。このふたつの違いは割と大きい。
 そして、「表現」が世界をこばむうちはまだよかった(何が?)。「世界」が表現をこばんだとき、じゃあ私たちは何を表現する? という問いが、2022年の川柳界であったと思う。
 なかはら句が2001年をマテリアルにしてから21年、世界はますます混沌としている。その世界は、「表現をこばむ」と言うよりは「表現をこばむことをこばむ」と言うべき状態にある。
 この世界のありかたに対して、いや世界のありかたに加担して、人はネットワークを駆使した。これは電子的なネットワークでもバイタルなネットワークでも構わない。コロナウイルスによって「孤独なる群衆」の孤独を痛感した時、人ははじめて「ネット」というものに触れたのではないか。これは比喩ではない。2020年を過ぎて、人類はやっと「ネットワーク」を手に入れたのだ。
 ネット=網に中心はない。さっき揚げた四冊の句集は、「中心はない」という点において共通している。それが評、あるいは世界をこばむ要因であることは言うまでもない。そしてもちろん、世界の拒否は世界の受容である。これは「言えないことによって言うことができる」構造と二重写しである。これらの句集は、世界を受容し、表現している。
 四冊の句集とその作者だけではない。「ネットワーク」上に活動する運動体——川柳句会こんとん、川柳句会ビー面、川柳諸島がらぱごす、マダガスカル句会、海馬万句合、といった活動、そのほかにもまだまだあるかもしれない——においても、この世界の拒否と受容が駆動している。
 これが2022年の世界なのだ。1999年の川柳人が望んでいた世界ではあっただろう? という問いかけ。
 
 だが、ここで私は棚上げにしていた問いをひとつ片付けなければならない。「句集とは一体何だったのか?」
 以下で簡略な考察を試みる。余裕のあるかたはおつきあいを願いたい。
 

2.不可能性の時代

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