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超次元的実戦川柳講座X−7 「助詞が愛を享ける・助詞が愛を享けるという認識」

(以下の論は、2024年3月23日「世界がはじまる十七秒前の川柳入門」を基にしています。「せか川」についてはこちらをどうぞ→世界がはじまる十七秒前の川柳入門


1.はじめに——「助詞」とは何か?


 こんにちは。実戦川柳講座です。
 今回も「助詞」についてみてゆきます。前回は「助詞がみちびくイメージ」ということでしたね。
 今日は、イメージをさらにメタ視点からみて、「助詞がいかに句を固定させようとしているか?」について考えてみたいと思います。
 今回のテクストとして、なかはられいこさんの『くちびるにウエハース』(2022年、左右社)より、「2001/09/11」の章を、助詞の観点からもう一度みてゆきます。このテクストをつかうのは、言葉の混乱と安定、という流れを端的に掴んだ一章であると考えられるからです。詳しいことはみながら確認してゆきましょう。

 で、助詞、今回は格助詞を主にみてゆくわけですが、「助詞」とはいったいどのようなものなのでしょうか。
 たとえば、助詞の「が」は格助詞、すなわち「××」「が」主体であることをあらわすわけです。
 で、この場合、私たちは「が」をどこまで意識しているのでしょうか。ひとが「着氷が」「レインコートが」などと言う時、どこまで「が」が制御、意識的にコントロールされているのでしょうか。
 ちょっと内心をふりかえってみてほしいんですが、たとえば「繊維質が」などと言う時、「が」という言葉は、ほぼ意識せずに導き出されてくるはずです。「導き出される」という自覚すらなしに、自然と「が」が発話されていると思われます。

 これは、格助詞「が」が、日本語というシステムを成していることの証左に他なりません。いやもちろん、名詞・形容詞の選択というのも日本語のシステム内で執り行われるわけですが、「助詞」「が」については、システムを運用するうえで、システムそのものをあらわしていると言ってよい。
 別の言い方をするなら、基本的にシステムとしてしか、テクストのなかにあらわれることができない。そう言った特質を持つものが「助詞」であるわけです。ここで基本的に、と言ったのは、ならば当然その基本を逸脱することも可能なわけで、「言葉によって言葉を書く」ということが川柳のある性質なら、「助詞」そのものを書く、ということも可能になってくるわけです。この点はあとで触れます。

 と、いうことで「2001/09/11」を「助詞」の観点からざっくりと見てゆきましょうか。

2.2001年の崩壊と「崩壊の認識」

ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ

 /なかはられいこ(以下同じ)
  
 はい。あまりにも有名な句です。このカオスの句にあって、格助詞は「が」のひとつだけであるわけですが、では、ここで「が」はいかなる役割をはたしているのか? と考えてみてもよいかと思います。
 人間が切羽詰まったとき、果たしてそこに「が」を入れる余裕はあるのか。人間の知を超える事態に遭遇したとき、はたして「文章」は成立するのか。

 たとえばなんですが、筒井康隆『家族八景』のテレパシー描写に対するクリティカルな批評として、「人間の意識はあのように散文化されていない」というものがあります。ジョイス『ユリシーズ』の最終章にしても、ひとまず日本語訳においては敷衍できる批評だとは思います。例の「無意識は言語のように構造化されている」とはまた別の次元の批評なので、「散文化」と「構造化」のちがいについては注意を払ってみてください。

 で、ちょっと脱線したんだけれど、この「ビル」の句において、再現されているのは「意識」ではない、ということが逆に明確になると思います。ここで書かれているのは「意識の流れ」ではなく、「言語というシステム」ではないかと考えられるわけです。
 そのときに鍵になるのは格助詞の「が」ではないか? と仮定しておきます。

 仮にこの「が」を取り払ったとしましょう。(「ターザン、猿、つかまえる」的な擬似原始文法として)
 
 ビル、くず、れてゆ、くなん、て、きれい、きれ、い
 
 いかがでしょうか。原句も十七音なので(!)改変句も十七音にあわせてみました。原句に対して、「日本語」が比較的崩壊していないのではないでしょうか。もっとも、この読点の位置は任意で変えられますから、この改変句のとおりになる、とは言えないのですが。

 ただ、ひとつ言えるのは原句において、「が」の挿入が(そしてそこに付随する読点の区切りが)、言葉の混乱をもたらしている、という事実です。
 この場合「が」はノイズなのでしょうか。然り、ということもできます。なぜなら、先ほどものべたとおり、「が」という格助詞は「システム」そのものであったからです。

「ビル」の原句は、「言語=システムの崩壊」により「言語=システム」をあぶりだすものでした。ならば、システムが崩壊したところに「システムそのもの」が導入されたなら、それはノイズとして反応されるのは当然でしょう。むしろ、「ノイズ」とするために「が」が要請されたと言っても良い。
「秩序による無秩序」がここには成立しています。これは作者がなにを思って書いたか、という問いには踏み込みません。わたしが、この句をいかに読むことができるか、という視点のみで論じてゆきます。

 だから、「究極のところこの句からなにを読み取れるか」という問題になるんですが、それは先ほども言った「言語=システムを書く」という行為自体を書く、という地点がまず入り口になると思われます。
 で、ここで一歩進めて、なぜそのような「書き方」が必要とされたのか、言い直せば、なぜそのような「読み方」をわたしの必然とされてしまうのか? と云う問題を少し考えてみたいと思います。

 この原句をみたときにおぼえる感覚は、圧倒的な崩壊です。この崩壊は、「句」自体が崩壊しているとも言えるし、「ビル」が崩壊している生ま生ましいイメージとも言えます。
 これは、どちらがどちらの誘因なのでしょう。それに関しては、卵とヒナの関係とも言えます。あるいは、メビウスの環のように表と裏が(どちらが表でどちらが裏か、とは言えないのですが)いつの間にか同一化している、そんなひとつの構造が思い描けます。
 言語の崩壊が、はっきりとしたビル崩壊のイメージをなす。同時に、ビル崩壊のイメージが、言語の崩壊を引っ張り出してくる。
 そうなってくると、「なにが言語を崩壊させているのか」という問いを立てねばなりません。その問いが、「この句をなぜそのように読んでしまうのか」という問いの原動になるからです。

「なにが言語を崩壊させているのか」ということに対して、読点のぶちきりかた、破調、などが挙げられますが、そのひとつに主格の「が」を加えることもできるでしょう。
 さっきもみたとおり、「が」の一音が入ることにより、句の様相は一変していました。これは形式的なうえでの問題です。そして同時に、「ビル、がく、」と言われたことの内容の問題でもあります。「ビル、がく」とあくまで「ビルが」という「こと」を表現しているとき、「ビルが崩壊しているのである」という意味がこちらに伝わってくるのです。「ビルが崩壊している」という内容が確とある、ということ。それはすなわち、「ビルの崩壊」という現実を読み手に突きつけていることに他なりません。

 ここでわたしたちはふたつの現実を突きつけられます。——「ビルが崩壊している」という現実と、「ビルが崩壊していることを認識している」という現実です。
 このとき、読者であるわたしに何がおこるか。それは、ふたつの現実を言葉によって結びつける、といういとなみです。
「ビルの崩壊」という現実と、「ビルの崩壊への認識」を結びつけるものは、言葉をおいてほかにありません。現実を認識するものはつねに言葉であるからです。
 この言葉に、「ビル、がく」と「が」が選ばれたということ。それによって「ビルが」という認識の集中がなされていること。これが、「が」が言語を崩壊させている、という理由への答えになります。「が」の一点とは、「内容の崩壊」と「内容の崩壊の認識」の結節点であるのです。

 そこまでくれば「なぜこのように読んでしまうのか」という問題の答えに近づきます。もうこれ以上は駄言であるのかもしれないし、トートロジーであるのかもしれませんが、「言語が言語によって書かれている」すなわち、「言語が言語によって読まれている」からです。
 言語が崩壊している、だがそれを書くものも言語である。同時に言語を読むものも言語である。
 そのシンプルな理論において、この句の成功はあります。この「言語によって言語を書く/読む」ときに、要請されるのは言語のシステム性であり、そのおおくを担うものがこの句の場合、主格の「が」であったわけです。

 だからもう先取りして言ってしまいますが、「2001/09/11」という連作については、「内容の崩壊」と「内容の崩壊の認識」がいかに一致しようとしているか、その運動につらぬかれた連作であるわけです。

「2001/09/11」がなんの数字であるかはすでに前提としてふれるまでもありません。ただ、現実におこった事件と、その事件の前に「言葉を失った」という事実の落差が、この句に運動性をもたらしている、ということは以前述べました。(→超次元的実戦川柳講座 その7「シュレーバー控訴院長の鑑賞」
「言い難いなにかが崩壊した」ことと「言い難いなにかが崩壊したことを認める」ことのあいだには、広大な真空があります。(あるいは、真空さえない)。このふたつの「現実」のあいだを飛びこえること。「命懸けの跳躍」というタームは安易かもしれませんが、川柳というジャンルはそれを可能である、と断言するジャンルであるし、その可能性を信じなければ続けられない文芸でもあると思うのです。

(ここで脱線します。「この句群は『社会詠』ではないか?」という問いも当然立てられるわけです。それについては然り、とはっきり言うことができます。ただこの場合、社会=現実という等式を、現実のなかに非現実を含めた「現実」として立てることによってのみ可能な「社会詠」です。この問題はきょう時間があまったら考えてみてよいかとも思います。脱線終わり)
 
 さて、それでは「2001」の「以後」の句をみてゆくことにしましょうか。あくまで運動性に、それも「助詞」の観点から着目してみてゆきます。
 

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