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超次元的実戦川柳講座 X−1「川柳がはじまるまでの・川柳がはじまるときの」 

1.わたしをわたしにしたもの(言葉)

 元気ですかあーっ。もうこのネタやり尽くしましたが、猪木を語り継ぐために、しつこくやり続けてゆきたいと思っています。で、猪木と言えば馬場さんの弟子である三沢光晴が「猪木なんて大っ嫌い」って言っていたこともありまして、それは三沢にとって猪木というのが「ダメな父親」の具現化に他ならなかったからだと思うんですが。逆に馬場さんというのは父親としてプロレスラー史上最も完璧な「父」であったわけです。カブキが「給料上げてくれ」って言ったら次の試合から一回百円上がったとかね。そういう不条理を含めて「父」であったわけです。猪木の不条理さは、何というか、結構ダメな不条理。いやこんな話、プロレスファンだけでやれという話なんですが。
 いずれにせよ、ひとは「不条理」から逃れられないわけです。たとえばこの「不条理」って言うのは体罰であったり、いじめであったりするんですが。これら不条理は確かにないほうが楽ではあります。第一、不条理はひとを醜くする。だけど「不条理をなくそう」って言ってる人びとって、「人間とは醜いものである」って前提をどこかで欠かしてしまっているような気もするんですよ。
 最終的に、人は究極の「不条理」——この世からじぶんが一切残らず消えてしまう——からはのがれることはできないわけですから。じゃあ不条理の耐性つけるために、不条理を与えよう、ってのもなんか違う気がするんですよね。不条理を考えてゆくと、頭が滅茶苦茶になりますが、結局この世に条理なんてないんですよ。あるいは、条理しかこの世に存在しない。
 で、その地点——不条理しかない——からはじまって、いろいろな行為をして、またまさにその地点に戻ってゆくこと。
 この運動の軌跡を描くこと。これが「文学」であり、「川柳」である、とは言えないでしょうか。なんか厨二病ぽいですが。
 個人的な話をします。私の記憶には一切無いのですが、乳児のころ、つかまり立ちや歩行をはじめるのが、かなり早かったらしいです。で、よちよち歩きを周囲が喜んでいたら、私、何を思ったか(いや、まだ何も思っていないとは思いますが)歩いて「熱湯の入った魔法瓶」に抱きついて転んでしまい、下半身まるまる熱湯を浴びてしまったそうなんです。で、結構な火傷で生死の境さまよって、母なんかそれで精神的に病んでしまったらしいですが、まあそれはそれとして。今でも私、右脚の裏側、びっしりとケロイド残ってます。子供の頃はもっとはっきり皮膚がただれていて、でも、「ウルトラマンの模様みたいでかっこいい」とか思っていましたから。その辺のコンプレックスは、たぶん、無いです。
 でもですね。「あー。あー」とか生きてるときに、熱湯を浴びるのって、結構な不条理だった気がするんですよ。私の場合、これが去勢じゃ無いかとも思っていて。ここに「父」というものが絡んできたら、そういう意味でのコンプレックスはやはりあるのかもしれませんね。
 去勢、って言葉をいま使ったけれど、これはあえてフロイトやラカンの古典的な意味で使っています。「母」との同一でみたされきった世界が、「父」の介入によって切断されて、ってやつです。ざっくり言うと、生まれた子供が「完全に満ち足りた世界」から「切り離された世界」に投げ込まれるということですね。で、ここで重要になってくるのは「言語」で、人間は去勢を経ることによって、はじめて「言語」を使うことができるようになります。というのも、「父」に対するコンプレックスというのは、象徴の獲得、というかたちを取り——「父のペニス」というものがはじめての「象徴」なわけですから——、「言語」とは「象徴」の最も身近なかたちであるからです。この「言語」が「象徴」の、言ってしまえばいちばんあらわしやすい道具だと思ってください。ここでシニフィアン/シニフィエという用語を使うなら、去勢を経る、ということはシニフィアンの内部に回収されるということで、つまり「言葉の網」のなかではじめて「自分」というものを持ち始めるということになります。
 シニフィアンというのは「意味するもの」であり、たとえば「禁煙マークのマーク」であったり「平和の象徴としての鳩」であったりするわけです。対してシニフィエというのは「意味されるもの」であり、「禁煙」であったり「平和の象徴」であったりする「意味されるもの」であるわけです。
 で、去勢が行われるとどうなるかというと、人は「シニフィアンの連続」に投げ入れられて、初めて「人間」として成立させられるわけですね。またざっくり言うと「言葉の網」のなかに自我を確立させるわけです。「人間」というのは「言葉」からできている動物な訳ですから。このあたりの、「言葉」が介入してくる感覚、今日の講義でおおよそつかめると思います。と言ってべつに私は精神分析に詳しいわけじゃ無いんですが。
 で、その去勢って不条理以外の何物でもないわけですよ。というところまでは押さえておいてください。これから川柳の話をします。
 川柳の575、十七音って、不条理じゃないですか。「なぜ575なのか?」って課題は以前やったと思うけれど、575に根拠はありません。ただ575が存在しているから、ひとは575をつくるし、美しいと思います。そして575をつくり、美しいと思うから、575が成立するわけです。この二つの要素は不可分に結びついています。シニフィアン/シニフィエの関係とパラレルに考えてもいいかもしれませんね。
 そのことは置いておくとして、「575は不条理」とは言えると思います。「言葉の網」というネットワークにさらなる制限をかけるわけですから。ここで自由律があるじゃないか、と言う人もいるかもしれませんが、あれも「575からの」自由であり、出発点の前提として「575」の圧迫を受けているわけです。したがって、「575に対する意識」というものは「句」というものに厳然と存在するわけです。——そもそも「言語」を「句」として切り取っていく(あるいは、いかされる)行為そのものが、「不条理」以外のなにものでもないわけです。
 であれば、「句をつくる」ことはひとつの「去勢」なのでしょうか。
 ここで早めに言っておくと、答えは然り、です。
 ただ、ひとつ押さえておきたいのは、「去勢」をみずから望んでしていることです。自ら575を選ぶこと。みずから575を引き受けること。みずから不条理に分割されること。
「言語の網」と言いました。通常の言葉は、網の中で、網と意識することなく流通しているわけです。そこにひとつの秩序を打ち立てる。つまり強制の力を持ち込む。これは、言葉が言葉としてさらなる存在をしている、ということに他なりません。
 で、ここで「みずから」ということに留意したいと思います。なぜ、みずからを檻に閉じ込めるようなことをするのか? なぜ、みずからを罰するようなことをするのか? 定型=罰という考え方はひとつのキーワードとして押さえておいてください。
 この罰を望む、ということは、「去勢」をもう一度再現させることに他ならない、と言えます。
 みずから望んで、再現させる。
 ここで重要なのは「再現」ということで。もし、去勢が再現されるならば、その瞬間、去勢以前の世界が再現されているということになるんですよ。
 去勢を再現させる、ということは、去勢以前から去勢以後の状態を再現させる、ということで。
 これは言い換えると、シニフィアンの網に回収される以前の「世界=自我」の充足を、一瞬取り戻すということになります。
 もっと言い換えると、「言語によって分割される」以前の「世界」を取り戻すということになります。
 そしてシニフィアン以前の「母と一体化した」充足世界から、世界を捨てる一瞬。その運動性が、「文学」という行為になるのではないか?
 なにかながながと余計な話になってしまいましたが、ここいらで川柳の話につながってきます。「句を書く」ということはすなわち、シニフィアン以前の世界を捨てて、シニフィアンの網の中に入っていく、そうした運動ではないのか?
 今日はその仮説を基に話をすすめてゆこうと思います。

2.言葉を言葉にしたもの(川柳)

「言葉の網」とたびたび言ってきました。「言葉の意味」というのは「言葉」を理解するための一番簡単な方法です。「意味」というのは「それが何であるか?」ということを知るのに一番手っ取り早い取っ掛かりであるわけです。で、「シニフィアン」の網のなかで「言葉」が「何であるか?」と知ろうと思ったら、「意味」を知ってゆくしかないわけです。言葉とはそうして獲得されてゆくし、言葉によって世界は分節されてゆくわけです。
 だから「意味」というのは「言葉の網」が落とした「影」、という言説も成り立つことになるのです。
 で、あれば、「言葉が言葉として機能しない」ということは、「言葉の網」「シニフィアンの網」が撹乱されている、その状況をあらわしたものだと、まず言えると思います。
 川柳を読む上で、あるいは書く上で、「言葉の意味」がまったく混沌としていることは誰しも経験します。これはつまり、「シニフィアンの連続体」が意識的に外されている、ということです。
「シニフィアン=意味するもの」が混乱しているということは、「シニフィアン以前」が川柳において前提されているということです。シニフィアン以前の「世界」が前提されているとも言えます。しかし、ここからなのですが、川柳には定型、575がありました。これが「去勢」であることは先ほど見てきたとおりです。前提として置かれた「シニフィアン以前」が定型による去勢を経ることによって、「シニフィアン」として成立するということ。これが、川柳が川柳として成立するときのダイナミズムです。
 ですから、何度もくりかえすようですが、「(仮構としての)シニフィアン以前」が「シニフィアン」として存在する軌跡。これを書くのが「定型」というモノを(不条理に)強制された「文学」のありかただと思うのです。
 したがって、「シニフィアン」を通過するときに、いかに法則を統御するか? すなわち、いかに自らを去勢するか? ということが「川柳」をつくる過程で問題になってくるわけです。
 去勢、ということは、ある一定のベクトルを句に対して与えることです。このベクトルがある句に対しては、「わからないけれどなんか凄い」という感想を抱くことができます。あくまで「シニフィアン以前」を前提として「シニフィアン化」への移行が川柳の駆動体なわけですから。
 さて、ここで「シニフィアン以前」ということと「幻の前句付け」という概念の相似に気付いた方も多いのではないでしょうか。
「幻の前句付け」については小池正博さんの開拓したタームです。
「前句付け」については以前に説明しましたね。「お題」の七七が出ていて、それに五七五を「付ける」のが川柳の源流であった、というあれです。「幻の前句付け」とは、どんな川柳であれ、それはこの世に存在しない「前句」に付けた「モノ」であるという考えです。
 この「幻の前句」に対して、それは「シニフィアン以前」と見做してもあながちに的外れではないと思われます。このあたり、私の牽強付会もあるのかもしれませんが。
 ただ「幻の前句に付ける」ということと「シニフィアン以前からシニフィアンに移行する」という行為にパラレルを見ても、それほどの不自然はないように思います。
 同じく小池正博さんの定義で「川柳は消えてゆく文芸である」というものがあります。これも、「定型による去勢」という概念を外挿してみると、わかりやすくなるでしょう。「去勢」ということ自体が、「何かを消す」ということに他ならないわけですから。
 では、そういった理論を打ち立てた小池さんは、どういう句を作っているのか? そしてどのように読んでゆくことができるのか? さらには、どうやって作ってゆけばよいのか? それらに留意しつつ、見てゆこうと思います。
 

3.川柳を川柳にしたもの(世界)

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