生まれてくるか、生まれてこないか、どちらが幸せか

[1]駐車場
 自分達でラジオのテーマを設定しておきながら「生まれてくるか、生まれてこないか、どちらが幸せか」なんて考えたこともなかった。もうその時点で生まれてきて幸せなんだろう。
 では逆に「生まれてこなくて幸せだった命」も僕達が不可知なだけで沢山あるのだろう。生まれてこなかった側の声を拾えないだけで。
 そう思うと「生まれたくなかったのに生まれてしまった」という、自分の希望とねじれてしまった命が不幸ということになる。この「希望とのねじれ」が全てのストレスの根源にあるのかもしれない。そんなことを、ラジオの出演が終わって静寂を取り戻した夏の駐車場で考えていた。沢山蚊に刺されたし、「ドラムの16ビートはやおです!」と言いながら見知らぬ人とすれ違って怪訝そうな顔をされたのでもう駐車場ではラジオに出ない。出る方が悪い。

[2]幸せ病
 ラジオが終わってカフェで一息つきながら、改めて「自分は生まれた時点でもう幸せなんだろうな」と感じていた。
 それなのに、どうしてまだ「幸せはなにか」とか、「幸せを追い求めよう」としてしまうのだろうか。それはもはや、恐ろしいくらいに肥大化した自分の欲求なのではないのか、そんなことを考えていた。それは、幸せを無限に追い求める「幸せ病」なのかもしれない。
 もう十分、今の人生は楽しい。「少欲知足」という言葉がある。わずかな欲望で十分満ち足りていることを表し、少ないものでも多くを望まず、満足する、という意味だ。
 確かにその考えも素敵で、それに比べると僕は幸せを追い求めすぎているし、幸せとはなにか全然分かってないただの強欲だと思うところもある。
 どうしたいのか分からなくなったまま、頼んだスムージーを飲み干し、カフェを出た。分からない、分からないけれど、分からない状態もまた、幸せなような気がしていた。
 

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