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根無草と無責任

[1]根無草
 今年は春先から「根無草になってしまった」という気持ちでふらふら生きている。一重に「母が亡くなった」という自分にとって大きな出来事から発生している感情で、親族の中で僕だけ両親が居なくなり(多少ややこしいが兄は兄の父が別に居る)、子どもも作っておらず、血縁関係においては糸の切れた凧のような気持ちで過ごしていた。
 元々そんなに血縁関係というものに縛られて生きていたわけではないはずなのに、想像以上に拠り所になっていたことを、そしてその拠り所を母が一身に背負っていたことを、先日母の誕生日に慎ましくハイボールを供えながら実感していた。
 逆に見えてきたことも沢山増えてきた。普段の生活、バンドの喜び、出会ってきた人たちのありがたさを毎日心から噛み締めている。それは悔しいくらい。ライブハウスでは、あの時苦手だった人も時間が経てば戦友のように話せるようになった。久しぶりに元気な姿で、逞しくなって会える人がいる。僕が甘えることが苦手なのを察知して、甘えても良いですよと声をかけてくれる稀有な人もいる。
 ライブハウスでは何か抱えている人もそれなりにいて、みんな傷を適切に舐め合いながら、前を向いて生きている。僕自身もそんなライブハウスやバンドに依存して、助けられている。

[2]心の疲れ
 最近果てしなく疲れている。一体どうして僕は疲れているのだろう。身体ではなく心が疲れている。僕はこの心の疲れの原因を「誰かの不誠実」というワードで表現することが多い。平たく言えば、「自分さえよければ周りはどうなってもいい言動や行動」に振り回されることで、心が疲れてしまう。
 別に、自分の言動や行動が知らない国の孤児にまで影響していることを考えろといっているのではない。せめて自分と関わりのある人同士は、配慮して優しく生きていきたいね、という話なだけだ。それだけなのに、どうもうまくいかない。
 世のほとんどの人は、自分と関わりのある人がどうなっても「自分さえ良ければ」見て見ぬふりをすることができる。それはお金を稼ぐ場や、欲望が発露する場ではより顕著になる。人を傷つけたって「自分さえ良ければ」なんでも良いらしい。本当に疲れる。本当に疲れた。
 毎日毎日「誰かの不誠実」に向き合い、頭を悩ませ、時間を注ぎ込み、心に傷を負い、片付けや処理を続けている。一方で自分さえ良ければ良い人は、そうやっている間にお風呂に入り、美味しいものを食べ、くつろいでいる。
 もうきっと、この人間の愚かさは不治だと思う。けれど、この人間の愚かさに関わらないと生きていくことができない。堕ちたら楽だけど、堕ちると人間としてもう駄目だという危機感だけがある。こうやって苦しんでいることすら、「自分さえ良ければ良い」人には伝わらない。諦めも虚しい。そういった色んな感情が交錯して、心の疲れを生んでいる。ライブハウスで多少は癒せても、根源的な解決はあるのだろうか。未だわからず、誤魔化しながら日々を過ごしている。

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