どこかでだれかが
[1]誰かの不幸せ
人生のほとんどは「誰かの不誠実」に真正面から対峙することだとつくづく感じている。ことサラリーの仕事になると、その「不誠実」の輪郭がはっきりしてしまう。
誰もやりたがらないこと、放っておかれたこと、そういった面倒事を誰かに押し付けてスルーしていればお金が貰えて暮らしができるものだから、仕事という場では「誰かの不誠実」をみんな無言で押し付け合っている。だから僕は仕事が嫌いなのだ。
誰かが穏やかに過ごしている間、代わりに放っておかれた面倒事に立ち向かい、責任を持って処理している人がどこかにいる。誰かが幸せなとき、誰かが不幸せなのだ。誰かの不幸せを引き換えに得られる幸せなんて、本当の幸せなのだろうか。せめて目に見える範囲の、誰かの不幸せを無視できない人でありたい。
[2]ピンとこない
凄い勢いで毎日が過ぎ去っている。抱えるものが増えてしまったなとつくづく思う。「誰かの不誠実」と向き合いながら「誠実」とは何だろうと、帰りの電車で考えていた。
僕にとってそれは「法に則って生きる」ということではない。人としてありたい気持ちを大事にして生きるということだった。困っている人は放っておけないし、舐めてる人には殴りかかりたいし、世を騒がせている不倫にピンとこなかったりする気持ちを大事にしたい、ということだった。
僕にとって全て正しい行動を取ることが「誠実」ではない。「なるべく迷惑をかけないようにするけれど、時におもいっきり迷惑をかけて反省しながら自分の気持ちに正直に生きること」が誠実なんだろうなと思う。
完璧な人間なんていないし、自分自身完璧だなんて全く思わないのに、どうしてか大多数の人は、他人に完璧や清廉を押し付けたりする。人間ってなんて我儘なのだろう。
明日の仕事も、誰かが残した不誠実を回収するはずだ。明日が視界をちらつくと、体がやけに疲れてたことを思い出し、途端に眠くなってしまった。明日に備えよう。
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