宇宙人の幸せってなんだ

[1]宇宙人に拐われたい
 「宇宙人はいないと証明する方が難しいから、宇宙人は居ると考える方が合理的だ」という言葉はなんだか素敵だ。
 最近自分がとてもつまらない人間になっていると感じる。それは明確に仕事に一定の責任を課せられるようになってからだったが、頑張れば頑張るほど、やはり、人生を食い潰される気持ちになるからに他なかった。頑張る人は、自分勝手な人たちが楽をするために人生の時間を潰されている。会社とは、そういう自分勝手な人を沢山乗せた方舟だ。
 毎度仕事が忙しくて、ZOOZのスタジオ練習は前日どれだけ残業して備えても遅刻しちゃうし、もうなんだかそんなことに振り回されて半分投げやりになっていた。
 そんな矢先に、先述の宇宙人に関する言葉にぶつかった。合理的だけど浪漫があるなと思った。浪漫がある生き方ってなんなんだろう?そもそも生きてなきゃいけないの?なんて考えている内に、こたつでうたた寝してしまっていた。
 起きたところで、宇宙人に拐われたわけでもなく、チップを埋め込まれたわけでもなく、喉が渇いたくらいで現実はなにも変わっていなかった。

[2]言葉のハサミ
 学生の頃、教科書で二十億光年の孤独を読み、先生が事細かに解説をしてくれたが、なんだかその行為自体がナンセンスな気がしていた。詩はほやほやとした感情を輪郭をつけすぎずにそのまま出しているのだから、解説で輪郭をつけるのはただつまらないんじゃないの?と思っていた。水彩画の淡い輪郭をマジックでなぞるような、そんな感覚で国語の授業を聞いていた。
 言葉はいつだって物事を切り取るハサミのようなものなので、音楽だって言葉の力でいくらでも意味が変わってしまう。言葉のハサミの扱いは本来非常にセンシティブだけど、毎日言葉を交わす僕達はその怖さをすっかり忘れている。
 人生の幸せとは、言葉で表せるものかもしれないし、表せないものかもれしないし、言葉の力で意味の違うものになってしまうかもしれない。そうそう、宇宙人にとっての幸せってなんだろうねぇ、なんて終電のJRに乗りながら考えていた。
 僕は思わずくしゃみをすることはなかったが、鶴橋から乗ってきたおじさんおばさんが人目を憚らずいちゃいちゃして発情していたので、これもまた幸せなのかもしれない(けどちょっと嫌かも)と思いながら、しっかり現実から引き戻されたのだった。

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