他人の気持ちを考える

[1]放棄した人
 他人の気持ちを考えることを「放棄した人」がいる。世の中には割といる。皆、自分の人生を生きているのだから自分中心で大いに結構と思うのですが、自分中心だからこそ「我儘」と「気遣い」は両輪じゃないとおかしくない?と感じていたりします。
 他人の我儘に配慮できる人こそ自分が我儘である権利があるというか。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」と言ったキリストのようなものというか。
 ただただ自分が我儘であり続ける人が多いので、きっと優しい世界なんて訪れないんだと思ったりもする。宗教なんて大体そういう人間の醜いところにキレたり怒ったりしていつまで経っても理想の世界を説いている。宗教が無くなっていないのであれば、今も昔も変わらない我儘な世界が続いているということらしい。

[2]ゴミ捨てメンバー
 ずるく生きることができない。「手の空いてる人、ゴミ捨て手伝ってくださいねー!!」と会社で号令がかかればほとんどの人が無視していても、自分がどれだけ忙しくても手伝ってしまう。そしてそうやってゴミ捨てに集まる人は、大体いつも同じである。
 「ずるく生きることができない」ということは、この人なら心を許してもいいかも、というリトマス紙になる。結局会社でそれなりに話したり腹を割ったりするのは、思い返せばゴミ捨てメンバーばかりだったりする。
 そこには権力や、貧富や、そういったものがない。ただ何となく「誰もゴミを出さなかったら困るよな」という自発的な気持ちから集まった集団なだけだ。
 あれ、もしかしたら、宗教が説いている優しい世界はここにあるのかもしれない。世の中には我儘な人が多い反面、案外優しい世界は転がっている。それに気づいて、どれだけ大切にするかが人生を豊かにするのかもしれない。

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