白とか黒とか

[1]疲弊
 現場は疲弊している。少し敏感な話をします。故意ではなく「誰かに感謝できない星のもとに生まれた人」は一定数世の中に存在します。それが悪いことであるとか、良いことであるとか、評価をつけるつもりはありません。そういう事実がある、というくらいに留めておきます。
 その事実に対し「誰でも優しくなれる、輝ける環境を作ろう」という理想があります。これはとても素晴らしいことだと思います。これも理想論だから無理でしょ、とか咎めるつもりはありません。
 ただそこにあるのは、現実と理想の乖離です。理想を目指していても、目を開くと見えてくるのは現実です。現実に誠実に対応すればするほど体は疲れるし、心は乱れるし、一筋の光すら閉じてしまうような、そんな感覚になります。
 この「疲れる」という感覚が非常に厄介だなと思います。相手ではなく、自分自身に厄介だなと思うだけです。人生で何度かそういった状況に遭遇するのですが、ひたすら自分自身の感情に厄介だなと思うだけです。
 この人と違う状況で出会っていたのなら、素敵な知り合いになっていたかもしれない、と思うだけです。ふわっとしていますが、どんな人であれ関わる状況次第で良い方にも悪い方にも振れます。ただそんなことを考えながら、電車に揺られる毎日です。

[2]身の回りの幸せ
 そんなことに思いを馳せていると、ひとまず「自分の身の回りの人だけは振り回されず幸せになってほしい」と考えてしまいます。
 だからといって「身の回り」から外れた人は不幸になってほしいとか、そんなことはありません。ただ「自分の抱え切れる範疇じゃないから、すまぬ」と言って知らないふりをするだけです。
 これは捉え方によっては「仕方ないよね」と見えることもあれば「自分勝手だな!」と見えることもあります。
 なので僕は「身の回りの人は幸せになってほしい」と常々思っていますが、なるべく自分の気持ちやその境界線を濁したままにしています。
 はっきりしろ!と言われそうですが、実のところ、世の中のほとんどははっきりさせないほうが丸く収まることが多いかもしれません。そこを線引きして「正しい」「正しくない」をはっきりさせるのが法律なような気がしますが、それは社会を回す為の人間の知恵なのかなと思います。
 完全に善良な人間もいなければ、完全な悪人もいません。白黒はっきりつけないようにして、生きているつもりですが、やはり疲弊してくると、疲弊の原因となる人を黒と決めつけてしまいたい衝動に駆られます。その方が心があっさり楽になるからです。でもなるべくそこも気をつけておきたい。
 グレーでお腹が気持ち悪いまま過ごす必要性もある。そういうグレーで置いたままにできる能力は、一つ人間の優秀な機能なのかなと思ったりもします。

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