試験と図々しい幸せ

[1]センター試験
 それが人生の全てだった。それなりの進学校にいた僕は10年以上前の日、センター試験を受けていた。
 親から貰った眼鏡を高校に入学してから早々に破壊したことを黙り続けていたので、試験の日は教室に掛けられた時計が見えないハンデを抱えながら、人生を賭した試験を受けていた。
 試験中は、部屋でDOPING PANDAやゆらゆら帝国のラジオを聴きながら、時にセキセイインコと喧嘩しながら勉強をしていたことが走馬灯のようによぎりながら問題を解いていた。
 自己採点の結果、僕は学内で1位か2位くらいの正答率だったことが判明した。古典の先生が授業中に「あなた、センター試験の成績良かったね!!」と僕に嬉しそうに声をかけた。しかしその途端、同じ教室の女子生徒が泣き始めた。どうやら彼女はセンター試験の結果が芳しくなかったらしい。
 僕がその当時人生を賭けて取り組んでいたのは、他人を蹴を落として得たいものだったのだろうか。そんな疑問を抱いたまま、結局僕は大学の前期試験に落ち、後期試験で第一志望ではない大学へ進学した。競争の中で幸せを勝ち取る社会の波に、知らずに揉まれていた。

[2]図々しい幸せ
 試験の成績が良くても悪くても、社会で良い思いをするのは真っ先に図々しい人だ。図々しい人ほど、他人の気持ちを堂々と無視したり、踏みつけたりして目先の自分の幸せを得ていたりする。
 けれど僕はそれで良いと思う。目の前の利益や快楽を得るために他人を蔑ろにする人は、彼らの知らないうちに沢山の人が離れ、恩義が離れ、手からこぼれ落ちるように人の善意が離れ、大切なものを沢山失っている。
 そして彼らはそのことに気づいていないか、気づいていても意固地で認めないことでしか自分を保てなくなっている。そんな脆い足場の上に建てられた砂上の幸せは、果たして幸せなのだろうか。
 悲しいかな、仕事をしていると図々しい人と関わらなくてはいけない。そして濃淡はあれど、その数は案外多い。
 僕は過労死ラインまでの残業で肉体的に疲れているのが辛いのではなく、忙しいが故に余計に顕になる他人の図々しさや攻撃性のせいで、自分が喰いつくされるような気持ちになったり、他の優しい人が潰されたりするのが辛いのだ。
 「なにか図々しさや、優しさを測る試験科目があってもいいのに」そんなことを思いながら、センター試験を振り返っていた。

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