干からびたハムスター

[1]干からびたハムスター
 秋口になると少し安心をする。かつて自分が生きるために就いていた仕事は動物の命を扱うものだった。夏場は暑さでやられてしまう動物が多くいた。
 命というものは人間でも動物でも植物でもどれでも平等と思っていても、結局は自分の命が一番大事で、どんなに素晴らしい理念を掲げても自分の命の前ではあっさり折れてしまう。
 秋を迎えることができず干からびたハムスター。ある人にとっては、そんなもの生きていくうちに通り過ぎていく景色の一つに過ぎないのかもしれない。でもそれは紛れもなく命であり、生きていたものに間違いなかった。僕は罪深い仕事をしていた。自分が金銭を得て生きるために、他の命を危険に晒していた。無意識に命に序列をつけて、その先頭に自分が居た。当時は夏が去って秋が近づくと、暑さで亡くなる命もぐっと少なくなって安心していたが、結局それまでにどれだけの命が失われたのだろう。
 この安心感は虚空を突くような、嘘を帯びているような、そんな感触があるだけだった。

[2]知らない暮らし
 また、それより更に前に就いていた別の仕事のことも思い出す。公的な仕事だった。明日どうやって暮らしていけば良いのか分からず、ほぼ最後の手段として見ず知らずのお婆さんが電話をかけてきた。
 たまたま僕が受話器を取り、気付けばかなりの時間話し込んでいた。お婆さんは「明日、どうやって暮らしたらいいの?お兄さんは良い人だから、話を聞いてくれる、ありがとうね。でも、電話を切ったらもう、私、親身に話を聞いてくれる人もいないかもしれない。明日から、どうやって生きたらいいのかしら」と言っていた。
 厳密にはどうやって話をつけて受話器を置いたのかは覚えていない。多分、僕は話を聞くことしかできずに、何か道を示すこともできなかったはずだった。覚えているのは受話器を置いた直後に、右隣の席の上司から「まともに相手するなよ」と言われたことくらいだった。
 知らない人の暮らしに、そこまで冷淡になれるのかと思った。自分にとって利益のない人、利益のない動物に、人はあまりにも鈍感で、鈍感がゆえにその恐ろしさも万倍ある。
 干からびるのがハムスターでなく自分だったら、明日の暮らしに途方に暮れるのがあのお婆さんでなく自分だったら、こうやって皆、見て見ぬふりをするのだろうか。秋口は少し安心するのだけれど、同時に少し息が詰まるようなことも思い出す。けれど、思い出さずにはいられない。そうやって毎年自戒して、生きるということをまたずっと考えてしまうのだった。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?