忘れられるということ

[1]後世に残るには
 ゆっくり、忘れ去られていく。10代からずっと全然死ぬ気もないのに「死ぬこと」に囚われている僕は、「人の記憶に強く残る」ことで、自分が死んだ後にも形を変えて人の脳内で生きようとしていた。
 それが小説であろうと、研究であろうと、音楽であろうと、なにか自分が死んだ後に人の記憶に残るものを作っておきたいと、手を替え品を替え夢を替えて、結局何も残らぬサラリーマンとなり稼ぎを得て生活をしている。
 例え音源を作ったとしても、自分が死んだ後に何ヶ月、何年、人の記憶に残るだろうか。多分、千年は残らない。どうせゆっくり忘れられていくのに、なんでこんなに時間と情熱と浪漫を詰め込んでいるんだろうと、虚しくなる時がある。
 「自分」を特別視しすぎているが故に、忘れられるのを恐れている自分のちっぽけさに、朝から嫌気がさした。

[2]バトン
 大学院に居た頃、「過去の人たちが研究してきたバトンを今の僕たちが受け取って、未来の人たちにまたバトンを繋いでいく」という言葉を聞いて、素敵だなと思ったことがある。
 その時は、研究を頑張れば自分の名前が歴代総理大臣一覧のようにつらつらと歴史の中に残れば面白いなぁとぼんやり思っていた。平たく言えば、名を馳せて後世にまで自分の名前が残れば良いな、と無意識に考えていた。
 でもきっと、この言葉の真意は「名前を残す」というところにはない。研究、音楽、何れも問わず、過去の人たちが積み上げていったものの上に、今生きている自分も積み重ねて、いずれ未来の人が自分の上に新しく積み上げていく、その連綿とした一連の行為に価値観を見出している言葉だったと、今なら思う。
 それならきっと、後世に名前は残らなくとも、何かしらの血肉になって未来の人の人生に潜り込むことはできるんだろうなと思う。あとはその価値観に自分が納得するか、しないだけ。
 ここまで考えると眠たくなってきて、「まあ、どっちでもいっか。今が楽しいし、レコーディングも近いし、ともかく今の自分が楽しくなるように生きようっと」と一つあくびをしてうたた寝をして忘れてしまうのであった。

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