思い出は血濡れたままで

[1]メガネは顔に刺さる
 大学3年生の頃、働いていた下町のお好み焼き屋のバイト終わりに、その当時店長だった水口さんという髭の生えたおじさんに飲みに誘われて、彼の行きつけのお店に行った。ちょうど今くらい寒かったのを覚えている。
 なんだか僕は、ちょっとそそっかしくて、人懐っこいのにガサツだからパートのおばちゃんに少し邪険に扱われていた水口さんという人がどうしても嫌いになれなかった。
 なんの話をしたかは全然覚えていないけれど、勧められるがままに日本酒をぐびぐび飲んでしまったせいで、帰り道に家の近くで顔から地面に倒れてしまい、メガネが折れてツルが顔に刺さったまま帰宅した。
 アルコールで麻痺した体に痛みは通用せず、圧倒的に眠気が勝っていたが、酔った頭でもこれは危ないと思いかろうじてバスタオルを頭に巻いて就寝していた。
 数時間後目が覚めると、血濡れたバスタオルは乾いて顔に張り付いていた。バリバリとタオルを剥がすと目の周りが腫れ上がった僕がいた。こういうことを数年に一度やってしまう。

[2]酒は辞められない
 とりあえずその日も夜からバイトだったので、腫れ上がった顔に予備のメガネをかけて家を出て少し歩くと、道に粉砕した昨日までメガネだったものが落ちていた。
 メガネの残骸を横目にお好み焼き屋に到着すると、腫れた顔を見て水口さんが驚いていた。一体何があったんだと。事情を説明すると「やってもうたなぁ!」と笑われた。「まあまた飲みにいこう」と言われた。
 何ヶ月かすると水口さんは異動で他店に飛ばされ、僕もバイトながら違う店舗へ飛ばされ散り散りになってしまった。更にもうしばらくすると、水口さんは辞めてしまったという噂が流れてきた。新しい店舗で馴染めなかったらしい。それから、水口さんに会えていない。連絡先もしらない。
 「透析がしんどくてなぁ。血を洗ってまた体に戻すから、しばらく自分の体じゃないみたいなんよ」としきりに水口さんはこぼしていた。「一日立ち仕事したら、ほら、足が象みたいにパンパンになるやろ。本当はあかんけど、酒はやめられんのよなぁ。また飲みに行こうなぁ。」

[3]思い出は血濡れたままで
 もうそれから10年近く経つものだから、水口さんはこの世にいないかもしれないし、元気かもしれないし、どこかで愚痴垂れているかもしれない。
 なんでこんなことを思い出しているのかというと、水口さんと飲みに行ったのが寒い季節だったこと、そして「珉珉の餃子が好きでなぁ!」と口癖のように言っていたので、先日ZOOZ新年会で2軒目に入った珉珉が、水口さんとの思い出を掘り起こしたのかもしれない。
 もう二度と会えないだろうなぁ。どこかでばったり会えたら、また日本酒をぐびぐび飲んで、次は血を流さず帰宅したい。でも多分、会えないだろうなぁ。思い出は血濡れたままで、透析されることもなく、あの時の血を吸って乾いたタオルみたいに脳に張り付いたまま、少しずつ色褪せていくのだろう。案外そういうことの繰り返しなのかもしれない。

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