脳と心と社会

[1]脳と心と社会
 最近専らの関心事は「脳と心と社会」だったりする。「脳と心」だけだったら、「あいつ人の気持ちのことも考えられないなんて最低!!」「あの人は損得を超えて心で話してくれるから最高!!」というように、対個人でどう思うかの話になるので、ぶつかりやすいし、避けやすい。
 しかし「脳と心と社会」というように「社会」という要素が足されると、途端に面倒になってきてしまう。「あの人、根はいい人なんだけど仕事とか、社会的にちょっと問題があってねぇ」「あの人は心が終わっているからこそ人を踏み台にして社会的に成功している」とか、対個人で済むはずの話でも「社会」という尺度が足されてしまうせいで、個人としては良い人でも社会的には問題があったり、個人としては最低でも社会的には成功していたり、「ねじれ」が発生してしまう。ここに生きづらさの根っこがあるような気がしている。

[2]マイノリティ
 結局そう考えると「マイノリティ(少数派)」という言葉も社会が生み出した幻影みたいなワードにすぎない。どんなに個人で魅力的な人でも、社会的にマイノリティであれば爪弾きにされたりする。そうやって生きている限りは社会に悩まされたり振り回されたり、誰かがナイーブになったり声高に捲し立てているのを眺めないといけなかったりする。
 そんな「社会」というシステムのせいで、その人本来の魅力が見えなくなったり、逆に実力以上に過大に見せていたりする。ここが大変。
 なので僕自身はなるべく人と対峙するときに、この「社会」という要素を意識的に取り除いて、「社会的にヤバい人でも、対個人として見るとどうなのか」「富も名声も得ている人でも、個人として見るとどうなのか」ということばかりを考えながら接している。僕が見たいのは、その人が社会的にどうなっているかではなく、その人自身の「脳と心」だけだ。
 ただ、僕はそうでも多くの人は違う。社会というものがしつこく付き纏ってマジョリティは人を評価するし、逆にマイノリティ側の人は生きにくい世の中を毎日毎時間憂いていたりする。
 「それでいいんだよ。それも個性だよ。」という言葉は気休めにしかならない。毎日考えても答えなんて見つからないけれど、毎日考えることが必要だなと思って、なるべく気を払って日々を過ごしている。

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