普通が恐い

[1]こわい
 働いていると、みんな「普通」であろうとする。普通に仕事をし、普通にこなし、普通に帰宅する。本来社会からこぼれてしまうような人も普通であることを強要される。
 まれに、ではなく結構な割合で「普通であること」が難しい人に出会う。そういう人は「なんで自分は周りの人みたいに普通に仕事ができないんだろう」と嘆いたり、思い悩んで体調が悪くなったり、普通を偽装したりする。
 社会は平たく言えば、色んな条件でそういった毎日悩んで生きる「普通ではない人」を容易く追い込んだり切り捨てたりする。あなたは仕事に向いていませんと、遠回しに。僕はその度に思う。なんで「普通」が偉そうにしてるんだろうと。
 しかしながら、普通の何が偉いんだと肌で感じつつも、当たり前のように普通側に居ることができる人は、「普通」という状況がとても心地よかったりする。社会に生きているだけで周りの幾らかの人は勝手に落ちこぼれてくれるものだから、社会に守られ、ぬくぬくと生きることができて、いつしか普通ということに疑念も抱かなかったりする。僕は普通が恐い。

[2]えらそう
 24時に仕事のメールが届いていた。先日仕事で電話をかけたら「自分が忙しい」という理由だけで烈火の如く僕に八つ当たりして怒り散らしていた人だ。周りの人はいう、「あの人はおかしい」と。「あの人だけ忙しくなっているのは、あの人の完璧主義のせいだ」と。
 そういう人も社会に溶け込み、毎日誰かを不快にしているのに、「普通」のような顔をしてのうのうと生きている。24時まで効率悪く自分に酔って、周りに当たり散らして生きているのに、社会から切り捨てられていない。むしろ、あの人は自分が「仕事ができる」とさえ思っているはずだ。
 やっぱり社会はどこか少し変だ。「周りを不快にする攻撃性の高い人」は残り、「自分に思い悩む普通ではない人」は消えていく。声のでかい人が残る。なんか優しくない。けど、自分がある程度の「普通」であればそんな社会でも居心地が良いので、多くの人は問題とすら思っていない。
 僕はきっと、この違和感に苛まれながらずっと生きていくと思う。その人自身の価値や魅力と社会のポジションが一致していない世の中に、不自然さを抱きながらこれからも生きていく。「それは仕方ない」と割り切って良いのだろうか。自問自答の日々は続く。

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