後ろめたくない

[1]嘘と自分
 「後ろめたい気持ちがない」という状態で生きるのは意外と難しい。自分を大きく見せたり、できもしないことに手を出したり、間違いを認めたくないと意固地になると、実際の自分自身を誤魔化さないといけなくなるので幾つか小さな嘘をついてしまう。見栄、とか、慢心、とかに言い換えてもいいかも知れない。
 うっかり「本来こうでありたい自分」に合わせるための嘘をつくと、その架空の自分に合わせ続けるために、ずっと嘘をつき続けなくてはいけなくなってしまう。
 こうして幾つかの見栄を含んだ嘘にまみれつづけていると、だんだん後ろめたい気持ちが膨らんでいく。徐々に自分の良心が圧迫され、気がついたら嘘に雁字搦めになって、更に誤差範囲の嘘を重ねて、哀れになっている自分が、確かに何年か前は存在していた。

[2]虚像と清算
 数年前に、僕はそういう自分に耐えられなくなって、一年かけて清算した。大きく見せるための見栄や嘘の裏側には、その虚像の犠牲になった他人の気持ちや言葉や厚意や我慢が沢山あった。清算してからは、穏やかな関係が幾分か回復した気がする。
 その時に「後ろめたい気持ちがない」というのは、こんなに気持ちが良いものかと感じた。頭にもやもやがなく、小さな嘘をつく必要がない日々は、こんなにも過ごしやすいのかと。謝る時に素直に謝り、悲しい時にちゃんと悲しみ、怒る必要がある時に正しく怒れる。人間らしい振る舞いがとても尊いものだと心から感じていた。
 振り返ると、見栄のために小さな嘘を重ねていた自分は、随分沢山と垢や錆や砂鉄みたいなものが体にまとわりついていたものだと思う。

[3]心とアラート
 たまに、もう取り返しのつかないくらい嘘を重ねている人に出会うときがある。もはや自分の実態が分からないくらい嘘にまみれてしまっている人がいる。
 僕は哀れな視線を向けながらも、あの時清算する踏ん切りが付かなければ、自分もああなっていたのかもしれないと思うと、なんとも言えない表情になる。あの時、なんで清算しようと思ったのか。自分でも分からない。分からないけれど、潜在意識から出た理屈や筋のない体と心のアラートに素直になっただけかもしれない。たまに、心はそれなりの奇跡を起こすことがある。なんだかしらないけれど、あの時の自分に感謝をした。

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