優しく生きるには

[1]優しく生きるには
 日頃から「死」というものを意識しながら生きていると、どうも我儘になれないし、なんだかなるべく他人に優しく居ようと思ってしまうのは僕だけなのでしょうか。
 普通は逆なのかもしれない。「いつか死ぬから」と思えば横暴になったり、自分勝手になったり、他人の気持ちを憚らずに生きたりするのかもしれません。しかし僕個人は、今日が最期かもしれないと思うと、ちょっとくらい周りに良い気持ちで生きたいし、一緒にこの日を生きているあらゆる人やモノが愛しく思えてどうも横暴になれなかったりする。
 逆に不老不死になってしまうと、きっと「死までの距離感覚」や「死生観そのもの」がなくなってしまい、今日なんてどうでもいっか、どうせ死なないし、と雑に生きてしまいそうだ。人間らしく優しく生きるには、どうしても「不可逆な死」が必要になってしまうのは、なんだかどうも厄介な世界の仕組みだなと毎日考え込んでしまう。

[2]人だけが入れ替わる
 20年前と現在の主要駅の比較画像なんかを見ると、「えー!20年でこんなに開発が進んでたんだ!高層ビルも沢山できて、こんなに変わっちゃうのか!」と思ってしまう。でも、身の回りの街は案外変わらない。
 最近は、小学生の頃過ごした地域を歩くことが多い。小学生の頃遊んでいた公園は相変わらずで、小学校近くの駄菓子屋やカラオケは潰れていたけど、当時出来たばかりのお寿司屋さんは、幾分か古びながら営業していたりする。よく遊んだ同級生の家は別の誰かの表札が掲げられている。
 この20年で入れ替わったのは街並みではなく、街を動かす人だったりする。僕も含め、ほとんどの人はこの地域から出て行ったり、逆に新しく入ってきたり、入れ替わり続けて街は街として機能し続けている。
 小学生の頃お世話になった先生や、同級生、街の人々はどこに行ったんだろうか。もうこの世にいないかもしれない。
 なら尚更、その時その時を大切にして生きていかないと面白くない。今関わっている人たちも、時や場所が変わればもう関わることができないかもしれない。今関わっている人を最大限大切にしたいと思いながら、過去と現在を重ねて街を歩いていた。

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