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死ぬまでの暇つぶし

[1]死ぬまでの暇つぶし
 ここ最近は忙しなく、体も心も余裕のない日々を送っている。毎日疲れている割には、寝る前に必ず「今日も楽しい暇つぶしだった」と思ってしまう。
 それは後ろ向きな意味ではなく、人間はいくら楽しくてもつまらなくても、ただただ死に向かって進んでいる存在なんだということを、寝る前に思い出しているだけだったりする。
 人生のあらゆる出来事を「暇つぶし」と捉えることで、幾らか気持ちも楽になる。失敗や困難や辛い気持ちでさえ死までの一時的な過程で、それは暇つぶしのイベントの一環に過ぎない。だからといって短絡的に天秤にかけて死んだ方が話が早いというわけではなく、楽しいことを沢山つくって精一杯生きて誰かと共有しながら楽しめば良いと思うに至っている。そんなシンプルな生き方を実践してみると、仕事でもプライベートでも、取るべき行動の選択の基準が同じになり、ここ数年で途端に生きやすくなった。
 誰かが困っていれば助ければいいし、楽しそうなことには全力で飛び込めばいい、不平があるなら解決するように動けばいい。それは全て暇つぶし。死までの道中をただただ楽しんでいるにすぎないのだと思うようになった。


[2]インスタントカメラ
 使い捨てカメラを買うのなんて高校生の時以来だったものだから、当時の価格から倍近くになっていて面を食らっていたけれど、むしろ時代の波に押されながらも細々と生産を続けてくれていることに感謝の念が湧いてきていた。
 そしてなんでも母親の話と結びつけてしまう脳の癖がついてしまい、亡くなる数ヶ月前、寝たきりで病床に伏せていた母がまだそれなりに話せる時のことを思い出していた。
 「孫がな、チェキが欲しい言うてんねん。でも欲しい言うてんの片方だけやねん。二人おるやん、孫。片方の孫だけに買うわけにはいかんやんか。2台欲しいねん。カタログないやろか。」
 「そうなんや、孫がたくさんいるのも嬉しい考えものやな。あとで調べて良さような電子カタログあったら送るわ、紙のカタログも叔母に用意できへんか聞いとくよ。」
 僕は母にチェキのカタログを送り、感謝のメールをもらったものの、その後実際孫に買ってあげたのかは聞いていない。



[3]母にとっての暇つぶし
 母は癌になる前に蓄えた僅かな貯金が、闘病中自由に使える唯一のお金だった。母にとってチェキ2台買うというのは、限られた資金の中ではかなりの大金だったはずだ。それを自分の為に使わず当たり前のように孫の為に使おうとしている姿が、なんだかいつもの母すぎて安心した覚えがある。何年か前に、僕がブラック企業で身も心もズタボロになって退社したとき「どうせ困ってるんやろ」といってお金を包んでくれた姿を重ねていた。母はなにも言わなかったけれど、大きく懐を痛めたはずだった。
 母にとっては誰かが困っていれば助ければいい、誰かが喜ぶならそれでいいという「死ぬまでの暇つぶし」だったのかもしれない。暇つぶしというと言い過ぎなのかもしれなけれど、かなり貧乏なのに、母は大事な誰かのためならお金に執着がなかった。僕はきっと、知らない間に母のそういう姿に影響を受けているんだろうなと、なんとなくぼんやり考えていた。そして今日もまた「死ぬまでの暇つぶし」を続けるのだった。

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