肯定しながら生きるのは難しい

 出生の条件の悪さや能力の限界に打ちのめされ、絶望する。しかし、何とかそれを突破しようと努力する。それでもやっぱり駄目なこともある。人に助けられることもあるし、人に騙されて辛くなることもある。何かに夢中になったこともあるが、人生がだるくて惰性で生きていたこともある。こんなことを繰り返しながら、しかし自分なりに生きてきたことを見つめている。そして〈私〉はこれからもこうやって生きていく。幸せの問いには、このような物語的自己了解がある。

岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学』139頁

[1]肯定しながら生きるのは難しい
 自分を肯定しながら生きる、というのはとても難しい。どうしても、自分の人生に後悔はないと思いたい。例え後悔はないと思っていたとしても、どこかで自分で自分を言い聞かせ、言い訳という名のある種の洗脳と納得を繰り返しているだけだったりする。
 真正面から意識的に自分を騙して生きていくことはとても簡単で、簡単すぎて無意識に自分で自分を騙していることすら気付けないことも多い。自分は無限に開かれた可能性に満ちた存在なんだと思って歩み始めたはいいものの、いくら努力してもなんともならない時がある。そして、それを認めたくないことも山ほどある。
 自分自身、この出生の条件の悪さ(というと語弊があるけれど)を打破するように努力すれば、なんだってできると思っていた。それは、自分は無限に開かれた可能性に満ちているという、どこから来るのか分からない自信を根拠にしていたからに違いなく、そして最初の方の努力は実りやすく、するすると人生がなんとかなりそうな兆しが見えているように思えていた。しかし挫折は必ず付いてくる。

[2]挫折とストレス
 挫折は存外簡単に訪れる。いくら努力したって超えられない壁にぶつかったり、出生の条件が良い人に、口笛を吹くように一気に抜かれたりする。そう言う時に、自分の環境を恨んだり、自分のことを分かってくれないと殻に篭ったり、周りの声を聞かない一種の自分の心を守る防衛反応が立ち現れる。
 自分の努力って一体なんだったんだろう。これまで人生の時間を費やしたことは無駄だったんだろうか。頑張りは間違っていたのだろうか。やはり出生の条件で、ある程度の人生の範囲は決まってしまうのだろうか。周りは結局他人だ。
 そんなことを考えては、実際そうだったことも多く、「人生はひっくり返せない」と本当に辛くなる瞬間を、何度も経験したりする。しかもそれは、自分が極限まで努力すればするほど、相当な挫折になって立ち現れるので厄介だったりする。
 自分が繰り返していたのは勘違いの出発と挫折の終点を行き来するばかりで、結局今のところ何者にもなれそうにない。そんなことを思う度に虚しくなるし、ストレスで途方もなく眠くなって現実から逃げてしまう。そのくせに、今回は凡々の人生だったね、諦めよう、来世に期待ね、と納得することもできず、未だに毎日もがいている。しんどい。
 自分の物語はどういう結末を迎えるにしても、なるべくもがいて終わりたい。心を込めて丹精に磨いていたダイヤが実はただの泥だったりすることもある。そういうときは、間違っていた自分を認めるところから始めなければ、先には進めない。何歳になっても、肯定しながら生きるのは難しい。

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