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蜘蛛の糸を握らない

 要するに、恋愛も結婚も相手があってのことであるにもかかわらず、それに関わる自分の中にある動機の正体の多くはおのれの欲望なのです。しかも世間的な価値観によって煽られ続けてきた欲望ですから、見かけの美醜、属性の優劣、収入の多さ、肩書きや職業などを基準にしています。

白取春彦『「愛」するための哲学』31頁

[1]できるだけ楽をしたい
 「できるだけ楽をしたい。」という言葉を履き違えたとき、人は魅力を失うのだと思います。できるだけ楽をして良いと思います。何故未だに残業が美徳とされているのか、僕にはちっとも分かりません。8時間も働いているのだから、すぐに帰って家でだらだらしながら横になって何が悪いのか。
 しかしながら「できるだけ楽をする」を、「他人を犠牲にしてでも自分だけが楽をする」と変換している人が少なくないような気がします。不合理なことに人生の有限な時間と労力を割く必要はないのですが、他人の人生を犠牲にして自分が楽を得ていい理由にはなりません。
 「誰かがどうせやってくれるから自分はやらない」「他人を貶めても自分だけが良い思いしたい」そんな欲望が見え隠れするのを見た瞬間、あぁ、この人は全然魅力的じゃないな、と思ってしまうのです。本来「できるだけ楽をする」は、自分も含めたみんなで考えるべきことなんじゃないかと思ったりします。自分も含めてみんなが楽をできる仕組みや発想を常日頃求めている人が、かっこいいし、魅力的に映ってしまいがちだったりします。

[2]蜘蛛の糸
 人間という存在がしんどくなる瞬間は沢山あって、大体それは「自分だけが良ければそれで良い」という気持ちからくる他人からの言葉や行動に、自分の心が喰われてしまう瞬間だったりします。そしてそんな愚かな他人も自分も、結局は同じ人間なんだということに絶望したりします。
 他人と比べたときの「羨ましい」とか「勝ち組になりたい」とか「お金持ちになりたい」とか、そういった相対的でちっぽけな欲求に絡め取られた人達が取る行動は見ていて悲しくなったりします。努力して自分を高めるのではなく、抜け駆けして自分だけが楽をしたり、安易に他人を貶めて相対的に自分を高める行為が、世の中には存外溢れかえっています。
 そんな熾烈な社会の中で、いつもいつも、僕は頭の中に「蜘蛛の糸」をイメージして生きています。天から地獄へ垂れ下がった蜘蛛の糸に、できるだけ楽をしたい人間が我も我もと縋り付く。そうすると糸は容易くぷつんと切れて、また皆地獄へ堕ちていく。それが世の中の縮図であり、ずっとずっと、世の中では蜘蛛の糸が垂れては群がり、切れるを繰り返しているような気がします。そしてそれが過激化しているのが匿名化されるSNSなんだと思います。
 自分はなるべく蜘蛛の糸を握らないで地獄を真っ当するしかない。そんな気持ちを抱きながら、日々を生きています。そもそも地獄に堕ちるようなことを前世でしなかったら良かっただけかもしれませんが、蜘蛛の糸を握らないこと。それくらいは地獄に堕ちても守ろうと思っています。

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