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お盆によろしく

[1]鉄道病院
 名古屋で遊ぶだけ遊んで終電の新幹線に乗り、新大阪に着いた時にはもう日が変わろうとしていた。新大阪からできるだけ家に近いところまで運んでくれる電車に乗ったものの、結局たどり着いたのは家まで歩いて40分かかる駅だった。
 僕は鉄道病院の前を歩いていた。病院の明かりは点いていた。そういえば昨年、この鉄道病院から不在着信が残されていたことがあった。それは自宅で闘病中の母が、倒れて寝たきりになる前のことだった。
 病院からの電話というのは、良い知らせであるわけがない。母が通院していたのは別の病院だったので、ひとまず「お母さん、何か鉄道病院にいく用事あった?」と母に連絡すると、「いいや、何も。なにがあったんやろか。」との返事でホッとしたのを覚えている。
 そんな出来事を思い出しながら歩くお盆深夜の街。小さなきっかけで母が立ち現れてくる。心に深く母が刺さっている。母が亡くなって僕は血縁関係では根無草になってしまったから、余計に母が恋しくなっているのかもしれない。「お盆」というワードにかこつけて母を何度も思い返していた。

[2]お坊さんの背中
 富山でライブをした翌日、始発の新幹線に飛び乗り大阪へ帰って母の初盆を迎えていた。滞りなくお坊さんが読経する後ろ姿を見ながら、このお坊さんがやっていることは、昨日僕がしていたライブと同じだなと思っていた。
 一緒に読経すれば母が安心するらしいけれど、僕は全然違うことを考えていた。小学生の頃、母がある日突然「明日USJ行くで」と言ってきた日があった。その日僕は、友達の奥村君の家でゲームをする予定だった。反抗期ではないけれど、誘う順番というものがあるだろうと思い、USJには行かず、奥村君を優先した。母は悲しそうにしていなかったものの「なんでなん」という表情をしていた。
 結局母は、当時の母の恋人と、兄と3人でUSJに行っていた記憶がうっすらとある。僕はきっと気難しい息子だったのかもしれない。母はそれ以降USJの話はしなくなった。
 お坊さんの背中を眺めながら、そんなことを思い返していた。法要が終わり、親族とまたしばらく会わないだろうなと考えていた。仲は悪くないが、母の病気がきっかけになって十年以上ぶりに会う親族ばかりだった。
 「ライブ見にいきたいわぁ」と叔母が僕に話してくれた。そういえば、癌になる前に母もそんなことを言っていた(多分音量に耐えられないからと遠慮していたけれど)。
 今度のライブ、叔母を誘うか。絶好調のライブを魅せたお坊さんの背中を思い返しながら、自分も少し、ライブ姿を見てほしいなと考えていた。しかし具体的な話に進む前に、照りつける日差しと礼服の相性の悪さにやられて、「暑いねぇ」と話題が切り替わってしまったのだった。

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