寄り添っているようで寄り添ってない

[1]人生はそんなもの?
 言葉にするのが難しい心の動き、難しいというよりかは、書くのに躊躇うというべきか。しかし、包み隠さず書いたほうがいいのか。
 小学生の頃、あれだけ仲の良かった友達の連絡先を一人も知らない。卒業してコミュニティというものを離れてしまうと世の中案外そんなもので、バンドでも会社でも、ライブハウスという場所を離れたり、会社を辞めたりすると、あっという間にあれだけ仲の良かったコミュニティの人と疎遠になりがちだったりする。
 人生で学校や色んな場所で同じ事象が何度も繰り返されるので「人生そんなものか」と思ってしまう。しかしそれは麻痺しているだけで、本当は「そんなもの」で済ませていいものかどうか、当たり前のように受け取って良いものか分からなくなったりする。

[2]戦力外
 「戦力外通告」という言葉がある。スポーツでも、芸事でも、会社でも「あなたはこのコミュニティには適さないので、実力が足りないので離れてくださいね」という意味だったりする。
 はっきりと戦力外を告げられるならまだ良いけれど、曲がった優しさか、本当の厳しさか、責任逃れか、分からないけれど「なんとなく本人に自分は戦力外だと気付かせて、自ら去ってもらう」ように仕向けることが割とどこでも存在する。
 会社なんてその典型のようなもので「自ら退職するように少しずつ現実をわかってもらう」ことが往々にしてある。
 それは淘汰の本能か、資本主義がもたらした事象か分からないけれど、コミュニティから離れるよう仕向けられた人は、徐々に「自分は必要とされていない」ということに気づく。例えそれに気づいた人がコミュニティに居続けても離れても、自分の不甲斐なさを抱えたまま生きていかなければならない。
 
[3]寄り添っていない
 そんなふんわりと戦力外を意識づけさせられ始めた人に、先日僕は「心配してます」と声を掛けてしまった。その時はフォローしてあげなきゃとか、あの人大丈夫かなとか、そんな風に感じて声を掛けてしまったけれど、後になって振り返ったらなんてことをしてしまったのかと悩んでしまった。
 無意識のうちに上から見て、勝手に心配し、「あなたは今必要とされてないんですよ」と遠回しに言っているようなものだった。寄り添っているようで、寄り添っていなかった。「心配してます」と声をかける行為の裏を返せば、自分の心のざわざわを落ち着けたいだけだった。
 他人の心配は、結局自分が安心したい気持ちの裏返しで、時に相手に残酷なほどに現実を突きつけることにもなる。言わない方が優しいのか、言う方が優しいのか、そもそもそんな線引き自体がナンセンスなのか、この一週間少し体調を崩しながら、そんなことばかりに思いを巡らせながら、なかなか回復しない体調を憂いていた。

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