ひとりよがり


[1]
 「ではでは、また」と言ってエレベーターの扉が閉じるまで見送ったけれど、中途採用された彼は今日で退職だった。仕事や気遣いができない人だったけど、根は良い人だった。
 彼の最終出勤日は、机の片付けやら、お世話になった人への挨拶があるだろうから、特に業務を持たせないように随分前から伝えていた。が、彼は「僕は、はぐれメタルのように去りますから」と言って誰にも見つからないようにひっそり過ごそうとしていた。その割には、最終出勤日も会社システムのパスワードを勝手に書き換えたりして相変わらず問題を起こしていた。

[2]
 彼は悪い人ではないが、他人に感謝ができない人だった。恐らく「ありがとう」という気持ちを身につけて生を受けてこなかったものだから、これからも感謝というものに気づかず生きていくのだろう。
 そうわかっていて、僕は「最終日くらいは、お世話になった人に挨拶にいったほうが良いと思いますよ。今は、その理由が分からなくても良いかもしれません。けれど、それは君の今後のためになると思います。」と何度も伝えていた。しかし、彼は自席から岩のように動かなかった。それも折り込み済みではあった。
 昼が過ぎ自席の片付けも終わった彼は、お世話になった人への挨拶にいかないためやることがなくなり、ずっと初期化されたデスクトップを眺めていた。僕が横で忙しく働いていると、やがて隣から鼻を啜る音が途切れなく聞こえるようになった。彼は昼過ぎから夕方まで泣き続けていた。
 涙でいっぱいになった彼は定時を待たずに無理矢理帰ろうとしたが、僕はそれを引き留めた。無論、退職の手続きが残っているからだったが、彼の涙の理由を何となく察しながら、厳しく引き留めたのだった。

[3]
 しばらくして落ち着いた彼に「この仕事、どうでしたか?」と聞くと、ぽつりぽつりと話し始めた。「みんな優しくて、今までで一番良い職場でした。けれど僕は仕事ができませんでした。そんな自分が不甲斐なくて、役に立てていないことが肌で分かって、毎日苦しかったです。周りが優しければ優しいほど、自分の出来なさが浮き彫りになる毎日でした。今日も本当は、はぐれメタルのように、誰にも気づかれず消えていきたいくらいでした。だから、挨拶も行きませんでした。」
 数十分ほど彼の話を聞き、僕は彼をエレベーターまで見送った。連絡先を交換せず、街中でばったり会ったら飲みに行こう、と約束した。
 この数十分の彼とのやり取りの中に、彼の脳内の大部分が詰まっていた。彼の脳内には「他人がどういう気持ちで生きているのか」という部分がすっぽりと抜け落ちていた。誰も仕事のできない彼を責めたことはなかった。仕事ができないことよりも、感謝ができない彼を僕も周りも随分長い間憂いていた。
 彼の感じる不甲斐なさも、周りに迷惑をかけたくない気持ちから生まれるものではなく、とことん独りよがりな気持ちから芽生える感情だった。彼がずっと泣いていたのは、理想と現実の噛み合わなさから退職する自分に、耐えることができない気持ちからだった。それは独りよがりの結果から出る涙だった。
 厳しい見方かもしれないが、彼が入社してきてからとことん話し、言葉を尽くし、時間を割き、フォローをし、人として向き合ってきた。横で彼が何を考え、苦しんでいるか毎日毎日見ていた分、最終日の涙に少し、冷めている自分もいた。やはり彼は、これからも「ありがとう」という気持ちが持てないだろう。人はなかなか変わらない。
 彼の人生はこれからも続く。きっとまだまだ苦しむ。街中でばったり会う約束をしたので、僕はその時が来るのを待ちます。その時には、この話もできたら良いなと思います。

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