晦日と通学路

[1]大晦日
 大晦日の特急は混むからと、10日も前から指定席を買って乗り込んだ電車で席に着くと、あっという間にスーツケースをぞろぞろ連れたどこぞの親族一同十数人に囲まれてしまった。どうやら僕が席を取った後に、ぐるりと周囲の席を購入しているようだった。僕は浮いていた。
 知らない親族の会話の中で僕は一人息を殺していた。しばらくすると皆静かになり、男性の安心した寝息が聞こえるようになった。安堵感から漏れる、実家の声量の寝息だった。
 一方で僕は苛々していた。それはその親族に対してではなく、思い返しても思い返しても僕の家族で出かけた思い出がでてこない、その虚無に対して「母は本当によく働いて、たった一人で子ども育てていたから、一緒に出かけることも出来なかったんだよな」と今更思った自分の遅さからだった。

[2]通学路
 前日の晦日は、母に会いに病院へ面会に行っていた。病院生活の続く母は「そうか、もう年末か。」と言っていたので、「明日は朝から『大晦日だよドラえもん』放送するからね、テレビカード買って置いておくから、二枚あったら足りるよね」「なんや、ドラえもんまでしか買ってくれへんのか」と笑いあって「良いお年を」と、お互い手を振って病院を後にしていた。
 そこから僕は一時間半かけて、自宅まで歩いて帰った。わざわざ時間をかけて帰ったのは、自宅にたどり着くまでの間に、当時通っていた小学校や、住んでいたマンションを通ることができたからだった。晦日からずっと、僕は母との思い出を探していたのだった。
 小学生の頃より小さくなった通学路を歩いて、母に怒られ家出をしたときに夜を過ごした公園の土管が目に入った。そういえばなんで怒られたのか、その理由も思い出せないまま、必死に当時の母の姿を手繰り寄せていた。思い出は想像していたよりも少なかった。

[3]思慮が足りない
 僕は思慮が足りなかった。思い出が少ないのは当然だった。母はずっと、僕と兄を育てるために働き詰めだったからだ。人生のほとんどの時間を労働に費やし、子どもが育ての手を離れてようやく母自身の人生の愉しみを探れると思ったら、次は病気に罹ってしまったのだ。
 そんな母の胸中を察することもできず、思い出ばかり探している自分が情けなくなった。僕はどこかで過去を美化してありもしない良い思い出の幻影を探していた。
 大晦日の特急の車内で、ようやく現実を直視することになった。僕の母はどういう形であれ、やはり僕の家族であり、母なのだ。どういう思い出であれ、胸を張って今を生きようと、そう思いながら誰かの大きな寝息を聞き続けていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?