他人はぬいぐるみではない

 他者に過剰に期待して、この人は〈私〉のことを完全に分かってくれている、と思い込んでいるなら、それは、他者を他者として見ていないことである。他者との関係を、自分勝手にデザインしているのだから。抵抗や摩擦がまったくない関係というものは、まさに実在しない幻想にほかならないのである。〈私〉と他者の価値観や感受性が、すべて一致することはありえず、それぞれの〈私〉は、それぞれに与えられた絶対性と有限性を生きるしかないのだ。

岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学』243頁

[1]ぬいぐるみだけが理解してくれる
 ぬいぐるみだけが理解してくれる。自分自身が幼少期の頃、何かストレスや悩みがあるとよくぬいぐるみに相談していた。ぬいぐるみは僕のことを完全に理解してくれ、いつだって肯定したり、励ましたり、心の状態を完璧に察知した言葉をかけてくれていた。ぬいぐるみに「今日はちょっと話を聞く気になれない」と言われたことがない。
 いつも話を聞いてくれるぬいぐるみは、自分のことを完全に理解してくれているもう一人の自分自身に他ならなかった。解決できない何かを、本来だったら誰かに頼らなければならない場面で全面的に頼ることができず、一部をぬいぐるみに頼ることで解決してきた。
 そうやって足りない何かをぬいぐるみに穴埋めし続けてもらっていた。裏返せば、早々に完全に理解してくれる他者という幻想を諦め、ぬいぐるみという自分自身に頼っていた。名残で今もぬいぐるみが大好きだったりする。

[2]他人はぬいぐるみではない
 たまに、恐ろしい人に出会うことがある。他人をまるでぬいぐるみのように、自分の思っていることを完全に理解してくれている、都合のいいように全て合わせてくれる、自分の全てを肯定してくれている、と思っている人が稀にいたりする。
 引用のように、他者との関係を自分勝手にデザインして、相手の気持ちを考えずに自分の欲求を全世界が肯定してくれていると考えている人がいる。これは本当に恐ろしいことだと思う。
 他者を他者として見ていないという状態は、全て自分の中の世界で物事が完結しているから、他人の声を聞くことができない。そういう人たちと関わらなければならないとき、自分がまるでぬいぐるみになってしまった気分になる。
 そして毎回、自分は家に帰ったらぬいぐるみに優しくしようと思う。他人はぬいぐるみではない。そう思いながら、ぬいぐるみに感謝している。

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