思い出は抜け殻

[1]変わる街
 今年に入ってから「思い出の場所」を歩くことがかなり多くあった。小学生の頃遊んだ公園や、もう潰れてしまった駄菓子屋、当時住んでいたマンション、デイサービスに変わったコンビニ、表札の変わっている友達の家、通っていた高校、様々な街をくぐり歩く機会がずっとあった。
 最初は「あぁ、懐かしい!あそこは変わってないなぁ」「あの時、怒られたっけなぁ」と懐かしさに耽りながら当時の思い出を手繰っていたのだけど、数ヶ月何度も往復するうちに、少しずつ自分の変化に気づいてきた。
 「僕は、過去の思い出のカケラを無理やり探して耽っているだけだった。通っていた高校ですら、もう僕の知らない沢山の思い出で上塗りされている。この街はもう僕の知らない、今を生きる街だ。」
 当時の思い出は僕の頭の中にしかなく、街は街として、今を生きるために変化し、機能し続けている。何かが抜け、何かが入りつづける街は、当時の思い出を留め置くことができない流動的で形が無いものだったりする。それを無理やり掘り起こして、美化された過去を再現しようとする自分になんだか少し、惨めになったりもした。今を見ずに、思い出の抜け殻を眺めているだけだった。

[2]善悪不二
 仏教の言葉で、人間は本来善悪で分けることができず、「善と悪が入り混じっている状態」だ、ということを表す言葉らしい。宗教には興味がないけれど、キリスト教的な善悪二元論ではない、なんだか煮え切らないけど惹かれる言葉だと思っていた。
 そもそも「人間は善と悪に分けられないことくらい分かってるよ」と思うけれど、それは大抵自分以外の周りに向けられた思考で、いざ自分自身にその言葉の矛先をしっかり向けてみると「まあ間違うこともあるけれど、でも、自分の根本は間違ってないんだけどね」という認められない強い自負心が絡みついていることが分かったりする。
 そうやって「根本は間違っていないはず」という気持ちで自分自身のアイデンティティを保っているけれど、自分も他人も「善悪が入り混じっている」ことに大差はない。自分の間違いを根っから認めることのできる人が、結局は他人の気持ちに寄り添える人になれるんじゃないかと最近は強く思う。
 そうやって最近は、過去の思い出とフラットに向き合い、そして自分の中にある悪の存在を認めながら、自己満足に生きないように努力している。そんなことができるのか分からないけれど、やってみないとこればっかりは分からない。

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