火中の栗を拾え

[1]10年の振り返り
 僕が大学院修士課程を命からがら修了し、10年になる。人によってはそれは一つの通過点ですが、僕にとっては本当に「命からがら」だったようで、最後の数ヶ月はあまり記憶がない。教授は「この先研究の道を進むつもりなら、もう人間の生活に戻れないと思いなさい」と言っていた。
 僕は人間の道を選ぶ(知力体力気力経済力的にも皆に着いていけなかった)ことになったけれど、僕を含め5人いた研究室の同期のうち3人は人間の生活を捨て、修羅の道を歩み始めていった。
 一方人間の生活を選んだのに、人間が作った社会の仕組みの悪意ある溝、すなわちブラック企業に2社連続立て続けに引っかかってしまった僕の人生はまた横に置いておくとして、大学院の頃の同期とは何年も連絡をとっていないけれどちらほら情報は入ってくる。彼らはこの10年間の歩みの中でコツコツと成果を出して、努力が結実しているようだった。ブラック企業とはまた異なった血反吐を吐く思いをしているんだろうな。そんなことをぼんやりと、当時延々と終わらなかった金曜日のゼミに思いを馳せながら耽っていた。

[2]火中の栗を拾え
 かつて一緒に過ごした同士達が今もギラギラしている。頼もしい。羨ましいという気持ちもあるけれど、逆に「僕の人生もそれなりに波瀾万丈だけど総じてワクワクして、こっちはこっちで楽しくやってるよ!」という誇らしい気持ちもある。
 諦めることや楽な方向に逃げていると、徐々に人生が八方塞がりにつまらなくなる。そうなるとキラキラした人や成功した人への羨ましい気持ちや過去の思い出をしがんで、巻き返しの効かない時間の壁がどんどん分厚くなるのを感じながら生きるしかないのだけど、どうやらこの10年、僕も何とかギラつきを保って生きてこれたみたいだ。
 振り返れば、誰も拾わない火中の栗を拾い続けるような10年だった。おかげで懐の寒さと引き換えに多少の火も熱くない体になり、沢山の危険と知見を得た気がします。更に10年経てば、今よりももっと異なった地平に僕達は立っている。その時に「人生楽しい!」と言えるように、まだまだ自分の人生に責任を持って火中に飛び込まないと面白くないと思いながら、まだまだ終わらない夏に少し疲れを感じ始める僕でした。

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