無痛の人

[1]痛みを感じない人
 世の中は思ったよりも会話のできない人が多い。そういう人の多くは、どんな状況でも自分のことを正しいと思っているし、自分の心の痛みに鈍感、いや、痛みすら感じないものだから、他人の心の痛みも全く理解できなかったりする。
 他人を傷つけることをなんとも思っていないというよりかは、相手が傷ついていることに気付くことのできない「無痛の人」の存在が僕を苦しめている。痛みが共有できなければ当然、会話ができないのも頷ける。そしてその溝は、決して埋まることがない。
 仕事をしていると、そんな「無痛の人」に幾らでも出会ってしまう。そして悲しいことに、他人の痛みを感じないという能力のおかげで、強引にそれなりの地位を築いている人も幾らかいる。無痛の人が、また別の無痛の人を評価し、成り上がっていく。そんな社会のシステムが悲しくもあり、いちいち傷ついては前に進めないという矛盾に陥ったりもする。そして痛みを感じない人が、痛みを感じない故にどんどん他人を気にせず前に進むのは、ある種納得する部分もあったりする。

[2]痛みを感じる人
 世の中には沢山の見栄が溢れていて、みんなで背を比べあったりしているけれど、痛みを感じることのできる人に救われることも多い。
 SNSでは、痛みを感じない人のありとあらゆる言説が誰かを傷つけ、一方で傷つけられた側も痛みを感じておらず心無い反撃を繰り返すような「無痛の人同士の斬り合い」を毎日見かける。痛みを感じることのできる他者が、その応酬を眺めては関係がなくとも勝手に傷ついたりしている。
 痛みのわかる人の声は小さいし、そう簡単に出会えるものではない。今、身の回りに痛みの分かる人がどれだけいるだろうか。無痛の人達の数多の大きい声を縫って、痛みに共感してくれる人たちの声に思いを馳せたりもする。
 そして、痛みの分かる人と、社会を生き抜くシステムは非常に相性が悪い。他人を蹴落とすシステムは、当然無痛の人にとって有利に働いてしまう。もう少し、社会全体が優しくなったら良いのにな。そう思いながら、今生きていて関わりのある人たちに静かに感謝をしつつ、傷だらけの自分も労わろうと思っていたのだった。
 
 

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