無敵と迷惑

 筆者の見解を加えるなら、「無敵の人」による犯罪は、何らかの苦境によって生じるのではなく、その苦境が自分の力では変えられないという無力感によって引き起こされます。この二つを区別することが重要です。もしも苦境に陥っても、自分の力でいつかその状況を変えられるなら、人間はその苦境に耐えることができます。しかし、そうした希望が失われるとき、苦境はいよいよ耐え難いものになります。筆者は、この「無力感」こそが、人々を「無敵の人」へと駆り立てる、根源的な要因ではないかと考えています。

戸谷洋志『親ガチャの哲学』69・70頁

[1]無敵の人
 「自分の力で人生をどうすることもできない」という絶望が、社会の仕組みから生み出されているのだとしても「じゃあ他人に迷惑をかけても別に構わない」という理屈を許すことはできない。だって実際に迷惑しているのだから。
 「自分の力ではどうすることもできない」という絶望感が「無敵の人」を生み出したり、時に大きな社会的な事件となって立ち現れたりする。しかし案外身の回りには「プチ無敵な人」「話の通じない人」という、ご本人は絶望に気づいていないケースが多い。
 どちらかというと、そういった絶望の自覚がない人の方が、僕は恐ろしかったりする。手にナイフを持っているのに気付かずに、どんどん人を傷つけていっているようなものなのだから。

[2]迷惑
 「迷惑」という言葉は面倒だ。小さな頃から「迷惑をかけちゃいけないよ」と教えられて育ち、実際に迷惑をかけるとすぐに傾くような家庭だったので、そういった価値観はより強固になってしまった。
 しんどいときは、頼れる人に適切に迷惑をかけるべきなのに、迷惑の質を考慮しないで、一律に「誰かに迷惑をかけちゃいけない」という考えが強くなってしまった。
 一方で「誰かが嫌がる顔」を想像できず、ひたすら迷惑をかけ続ける人がいる。久々にネカフェにやってきてみると、共同使用のお手洗いやシャワーが酷く汚れて使用されていたり、静かにすべき場所でずっと誰かが話していたり、大きな物音を立てることを厭わない人がいる。なるほど、これは迷惑だ。
 やはり「迷惑」という言葉で一様に括られているけれど、その迷惑には質や種類がある。相手を想像した上で、申し訳ない気持ちを込めて迷惑をかけるのか、相手を想像しないで、傍若無人に迷惑をかけるのか。だから、「迷惑」という言葉は面倒だ。


[3]分かり合えない
 「自分一人がどう振る舞ったってなんにも変わらないし」という絶望感を社会が生み出しているのであれば、それはとても悲しいことだ。そして、その絶望感を体の中に取り込んで、他人の嫌がる顔を想像しないで生活するのはもっと悲しい。
 他人を想像しないで自分勝手に生きるのは、恐らくその人自身は幸せだろう。しかし、その周りにはたくさんの他人の嫌な気持ちが漂っている。それは本当に幸せと言えるのだろうか。そういう人ほど、周りの気持ちに全く気づくことはないし、分かり合えることはない。そういう人と対峙する時、適当にはぐらかして生きるのが一番賢いのだろうか。答えが見えそうで見えない問題をまた、考えながら過ごしている。



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