無敵と迷惑
[1]無敵の人
「自分の力で人生をどうすることもできない」という絶望が、社会の仕組みから生み出されているのだとしても「じゃあ他人に迷惑をかけても別に構わない」という理屈を許すことはできない。だって実際に迷惑しているのだから。
「自分の力ではどうすることもできない」という絶望感が「無敵の人」を生み出したり、時に大きな社会的な事件となって立ち現れたりする。しかし案外身の回りには「プチ無敵な人」「話の通じない人」という、ご本人は絶望に気づいていないケースが多い。
どちらかというと、そういった絶望の自覚がない人の方が、僕は恐ろしかったりする。手にナイフを持っているのに気付かずに、どんどん人を傷つけていっているようなものなのだから。
[2]迷惑
「迷惑」という言葉は面倒だ。小さな頃から「迷惑をかけちゃいけないよ」と教えられて育ち、実際に迷惑をかけるとすぐに傾くような家庭だったので、そういった価値観はより強固になってしまった。
しんどいときは、頼れる人に適切に迷惑をかけるべきなのに、迷惑の質を考慮しないで、一律に「誰かに迷惑をかけちゃいけない」という考えが強くなってしまった。
一方で「誰かが嫌がる顔」を想像できず、ひたすら迷惑をかけ続ける人がいる。久々にネカフェにやってきてみると、共同使用のお手洗いやシャワーが酷く汚れて使用されていたり、静かにすべき場所でずっと誰かが話していたり、大きな物音を立てることを厭わない人がいる。なるほど、これは迷惑だ。
やはり「迷惑」という言葉で一様に括られているけれど、その迷惑には質や種類がある。相手を想像した上で、申し訳ない気持ちを込めて迷惑をかけるのか、相手を想像しないで、傍若無人に迷惑をかけるのか。だから、「迷惑」という言葉は面倒だ。
[3]分かり合えない
「自分一人がどう振る舞ったってなんにも変わらないし」という絶望感を社会が生み出しているのであれば、それはとても悲しいことだ。そして、その絶望感を体の中に取り込んで、他人の嫌がる顔を想像しないで生活するのはもっと悲しい。
他人を想像しないで自分勝手に生きるのは、恐らくその人自身は幸せだろう。しかし、その周りにはたくさんの他人の嫌な気持ちが漂っている。それは本当に幸せと言えるのだろうか。そういう人ほど、周りの気持ちに全く気づくことはないし、分かり合えることはない。そういう人と対峙する時、適当にはぐらかして生きるのが一番賢いのだろうか。答えが見えそうで見えない問題をまた、考えながら過ごしている。
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