楔か、呪いか

[1]楔か、呪いか
 それは楔か、支えか、幸せか、呪いか。「もう自分の為に生きていたらこんなつまらない仕事なんてとっくに辞めてるよ。身内の為と思っていないと生きていけない」と、久々に会った友人は言っていた。
 それは時に家族であり、子どもであり、配偶者、総じて「大切な人」であるだろう。しばらく会わない間に彼は「自分の人生」が「大切な人のための人生」になっていた。自分の人生の中心に、自分がいない人生を選んでいた。
 僕はそれが凄く素敵なことで、美しい言葉だと思った。一方で僕自身はまだまだ「自分中心の人生」を懲りずに追い求めているので、醜いのか、良く言えば泥臭いのか、少なくとも彼の人生観とは綺麗な対比を描いていた。
 「自分の為に生きる人生」も、「大切な人のために生きる人生」も、それは楔か、支えか、幸せか、呪いか、さっぱり分からなかった。

[2]自分勝手のメッカ
 そんな昨日の彼の言葉をしがみながらZOOZの練習終わり、混んでいる阪急電車に乗っていると、座席の向かいの男が明らかに2人分の席を占有して、脚を大拡げてスマホをいじっていた。
 「人は自分の為に生きすぎるとこうなるのかなぁ」と思ってなるべく目を合わさないようにしていると、数駅立ちっぱなしだったサラリーマンがその男に向かって「席を詰めろよ!!」と怒り出した。
 男は舌打ちしながら席を立ち、しばらくするとまた空いた別の席に座り、2人分の幅を占領してスマホをいじり出した。その男の横では別の若者が手袋を鼻に詰めていてただただつまらなかった。これが大阪に向かう電車の日常である。大阪は笑いのメッカではない。自分勝手のメッカである。
 その時僕は、「自分の為に生きている人生」は「自分勝手に生きる人生」ではないと明確に思った。というよりかは、そうやって思わないと、「自分の為に生きている」僕は、こんな人たちと同類になってしまうことを恐れていた。
 イヤホンの音量を、他人の迷惑にならないよう音漏れしない程度に上げて、目を瞑って、自分勝手のメッカをなるべく遮断した。電車に充満する華金のアルコールの匂いだけは遮断しきれず、自宅の最寄駅がいつもより少し遠く感じていた。

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