独善と不機嫌

 いつも気分が安定していて、大体において機嫌のいい人、そのような人と一緒にいると、楽しくなりますし、そんな人の前では自分をよく見せようと思わなくてすみます。
 反対に、人前では機嫌がよく、愛想もいいのに、親しい人の前では不機嫌になるという人がいます。そのような人は、家の外では友好的なのに、家に帰ると横暴な態度を取ります。
 これは甘えです。人前で機嫌よくいられるのなら、親しい人の前でもそうあるべきだと思います。怒りと同様、機嫌も自分ではどうすることもできないものではありません。その時々の状況に合わせて、上機嫌になるか、不機嫌になるかを自分で決めているのです。状況によって態度を変える人は、不機嫌でいる時にまわりの人が腫れ物に触るように接するのを見て、不機嫌でいればまわりの人を支配できることを幼い頃に学んだのであり、今も機嫌によって人を支配できると思っているのです。

『愛とためらいの哲学』岸見一郎189頁

[1]自分のことばかり考えている 
 「機嫌の悪い自分を相手に見せて不快な思いをさせたくない」という気持ちばかりが先行して、自分はあまり不機嫌になれない。たまにコントロールできないこともあるけれど、なるべくそうならないように不機嫌を避けている。
 仲良くなればなるほど相手と自分の「機嫌」が折々に触れて気になってくる。「親しき仲にも礼儀あり」と言い換えてもいいかもしれない。親しい人同士だからこそ、ずっと楽しい関係でいたいし、そうである努力は不断に続けるべきだと思う。
 一方で不機嫌をばら撒く人は、不機嫌というツールを使って相手をコントロールしようとしている。何とか機嫌を良くしてもらおうと、相手に様々な手段を尽くしてしまうけれど、その行為自体が、相手の要求を助長させてしまったりもする。大人の不機嫌は戦略的でタチが悪い。

[2]危険な押し付け
 最近はあらゆるものごとを「押し付けてしまっていないか」とばかり考えている。不機嫌もそうだけれど、独善的な思いやりや、ギブアンドテイクや、ギブアンドギブもそう、自分が気持ちよくなりたいが為に「良いとされていること」を相手に押し付けていないかばかり考えている。
 僕は恥ずかしくなるくらい、誰かに良いことを押し付けて気分が良くなっているだけの時間が多い。人を思っているつもりで、結局は自分が責められないようにするためとか、自分だけ気分が良いとか、そんなことを裡に秘めた言葉や行動を繰り返している。相手に施しを与えて徳を積んでいるような気持ちになっているだけで、相手に寄り添えていないことが沢山ある。
 目を瞑ればそんな恥ずかしい未熟な行動ばかりが瞼の裏に現れてくる。それでも前を向いて、今関わってくれている人達と、人間として向き合わなければならない。
 頭でばかり考えて八方塞がりになりつつある自分に少し嫌気がさすけれど、不機嫌になりきれない自分もまた、確かにそこにいるのだった。

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