疲労と哲学

[1]疲労の原因
 「自分の正しいと思うもの以外は全て間違い!と考える人が多いのか、そういう人の声が大きいだけなのか、はたまた両方なのかは分からないけれど、ここ数日の疲れの原因のほとんどはこの不寛容にある。
 「全て間違い」とまではいかないまでも、自分の正しいと思う事柄の順位が絶対に変わらない人は多い。そういった人たちの自尊心を撫でながら過ごしているので、自分の疲れが溜まってしまうのは無理がない。
 「あらゆる価値観が認められる」という多様性の時代のわりには、自分ばかり主張して、他人の価値観に寛容でない人が多い。自分の価値観や考え方ばかりを優先しないで、他人の価値観も横並びに考えないと、押し付けられる側の疲れは溜まるばかりになってしまう。
 日々の労働に疲れ、布団に入って目を瞑るとチカチカとした昼のオフィスを照らす蛍光灯の残像が瞼の裏に残っている気がした。今日話した人たちの影がよぎっているうちに、疲れが優ってあっという間に眠りについていた。

[2]人生を辛くするもの
 仕事は、本来は楽なものだと思う。ブラック企業にいた時は、全地球の責任を1人の肩に乗せられているような錯覚を起こして気を病んでしまったし、辞めるという選択肢がまるで人間を辞めるようなものだったし、辞めてから辞める前の暮らしに戻るまで何年もかかってしまった。
 今思えばなんてこともないのだけれど、当時周りに沢山いた「自分のしている仕事ってこんなに大変なんだよ」という、その人の自尊心を高めるための言動や、他人と比べたりする価値観の競争など、数々のどうでもいい瘴気が蔓延している職場にいたことが、仕事が辛いものにしてきた原因なんだと思うようになってきた。
 仕事を辛くしているのは大抵、人間の傲慢さやみみっちい他人の自尊心だけだった。
 ようやくそんなものに振り回されなくなってきたけれど、対処するのに大きな疲労はまだ伴ってついてきてしまう。家で沢山寝て、電車でも沢山寝て、休日はライブに向かう。日々は疲労との闘い以外のなにものでもないのかもしれない。


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