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モノクロ

白子はエンゼルケーキを食べる。
黄身と切り離された、卵の白身の部分だけを使った清貧を美徳とするようなケーキ、それがエンゼルケーキ。
天使は、蜂蜜とミルクしか口に出来ないらしい。
命を奪うことが出来ないから。
白子も、その天使のようだった。
虫一匹殺すことが出来ないような顔をして、周りには沢山の、神の使いのような白い蝶か、妖精が、微笑みながら見守っているような空気を纏った綺麗な顔をして……
白子の元には、なんでも揃った。
その美しさで、母親は、神に供物を捧げる信者のように喜んで、なんでも白子に与えた。

黒子は、デビルケーキを食べる。
悪徳の極みのような材料をたっぷり使って、食べれば間違いなく体重計に乗った時に後悔する。
一瞬の快感のために、そのあと全てを犠牲にする誘惑を、言葉巧みに発するようなケーキ、それがデビルケーキ。
黒子には、誰も美味しいお菓子など分けてくれない。だから、全部自分で揃えた。
道具も、材料も、少ないお小遣いと学業の間を縫うようにしたアルバイトで、なんとか揃えた。
作り方も全部一から調べて。
仕方ない、それもこれも、全部白子のせいだ。
昔から、こんなどんな上等な砂糖でもかき消せない苦い思いを抱いているのは、他でもないあの白子のせいだ。
だから、自分はこれくらいの愉悦を感じても良いはずだ。
「おまえなんかが良い目に会えると思っているのか」
「お前がそんな事をしていいと思っているのか」
黒子は、誰も言ってなどいない言葉に、自分の心の中にしかない言葉に、ずっと自分で反発していて、いつも疲弊していた。
心の中の、もう一人の真っ黒な自分が囁く陰口の言葉が、そのまま濃度の高い、真っ黒な霧になって自分の周りに漂っているようで、頭を振ってもう一人の自分のおしゃべりと、真っ黒い霧をかき消そうとした。
―そんなことより、今私の前には念願のケーキがある。
誰も与えてくれないから、四苦八苦して自分で作った。
本当は、誰かから与えられたかったけれど、いつまで待っても、そんな日は来そうにないので、自分が自分に与える事にした。

白子は、自分では何も出来ない。
けれども微笑めば、何も知らない赤子でさえ、笑いだす天使のような美しさのせいで、なんでもして貰える。叶えてもらえる。
黒子は、それが堪らなく嫌だった。
昔からその光景を見て育った。
与えられるものと、何も無いもの。
母親は、それに露ほども、何も思わなかったようだ。

黒子は、てろてろと光るクリームの中に、恐る恐るフォークを差し込んで、クリームと生地の層を一口大に切り取り、自分の口の中に運んだ。
黒子は、初めて食べたケーキの味に、思わずフォークを落とした。
それほどまでに、このケーキが美味しかったのではない、それならばどれほど良かっただろうか。
黒子が初めて自分に送った舌の上の贈り物は、口当たりが悪く、味もただ甘ったるいだけで、これならばコンビニの聖夜を過ぎて値引きされている安物のショートケーキの方がよっぽど美味しい。
初心者がケーキを作るのは、難しいと聞いていたけれど、何もこんなに不味くなることはないだろう。
初めて、あの甘いケーキが食べられると思ったのに、材料も道具も、あれだけ苦労して揃えたのに、時間もお金も全て水の泡だ。
そして、目の前の憧れだった洋菓子は、ただの美味しくないスポンジとチョコレートとクリームの塊だ。
しかし、これを生ゴミとしてゴミ箱に葬るのは、黒子にはあまりにも酷だった。
黒子は、ただ無心に美味しくないケーキを口に運んだ。小説でよくありそうな、泣きながらケーキを食べて甘いはずの味が、少しだけしょっぱく感じた、なんて陳腐な事を感じる余裕は、黒子にはなかった。実際、黒子の目からは塩味のする液体の調味料は流れてこなかったし、目の前の、スポンジが黒いチョコクリームで武装した、かろうじてケーキとも呼べるものは、自分の心のどす黒い思いが宿って、カロリーの怪物みたいに感じていた。
自分は、銀色のフォークの剣でその化け物を退治する勇者ではなく、それを貪るもっと大きな怪物だった。
ずっと感じていたが、それに気づかないようにしていたことがひとつある。
ー私は、やることなすこと全て上手くいかない呪いにかかっているのではないだろうか。
オーロラ姫が誕生した時に、皆から快く祝われる幼い姫を憎んだ魔女が、呪いをかけたように、自分は生まれた時に、どこからか醜くい魔女がやってきて、白子と黒子、どちらか一方に、何かの呪いをかけようとした。
母親は、白く綺麗な赤子を守り、黒い自分を犠牲にした。
可愛いらしい白が、そのような呪いを受けることなど惨たらしいから。
だからこそ、自分はこのように焼き菓子ひとつ満足に作れないし、何もしなくても愛されて、何もかも与えられる姉がいる。
そう思うしか、このやり場の無い思いを処理出来なかった。

ある日、黒子が本を読んでいたら、耳元でぷーん、と音がした。
せっかく夢中になって本の世界に逃避していたのに、少しいらついて読みかけのページにしおりを挟み、真珠玉の声で話す人形の世界の話から抜け出て、現実の不愉快な音の主を探した。
無作法な音の主は、どこから入り込んだのか分からない季節外れの蚊だった。
未だに黒子の顔近くを、横暴に飛び回り、隙あらば血を吸い取ろうとしている。
網戸の近くに虫除けも下げているのに、と言いたいのを我慢しながら、頭の片隅から押し入れの中に使いかけの蚊取り線香があったことを思い出した黒子は、中身が湿気ってなければ良いのだけれど、としょうもない事で淡い期待を感じながら、押し入れのある部屋へと向かった。
黒子が蚊取り線香の煙と匂いをくゆらせながら本を読んでいた部屋に戻ったら、今の今まで黒子がいた場所には、白子が座っていた。
俯いて、ぼうっとしているのか、骨董店の店先に薄い布を被せられた美しい人形が、佇んでいるようだ。美しい人がその表情をするとまるで生気が無くなるようになるんだ、とその様子を見ていた黒子もぼんやり思った。
姉が、本当に魂のない人形だったならばどれほど良かっただろうか。
その気持ちが、黒子の心の中にふっと湧いたのと同時に、またあの不快な羽音が耳元でした。
黒子が慌てて、音の元を探ると、蚊は持ってきた蚊取り線香の香りに参ったような、ふらふらとした飛び方で今度は白子の方へと飛んだ。
白子の耳にも、多分不快な羽音は届いているのだろうが、白子は、気にして音の方向を見るどころか、眉を怪訝そうに動かしもしなかった。
黒子は、冷たい温度の粘土できた人形ではない、暖かい血の通った生身の人間の白子が、およその人間が嫌がるような事を全く気にせず、本当に人形のような素振りを見せるのが、とても嫌だった。
けれども、完璧に美しい清らかな白の中に、野蛮な小さい羽虫の黒が入り込むのは、もっと嫌だった。
王に墓守を命じられた男が、民衆から嫌がられて、自分でも望んでいない職務を全うしなければいけない、でもそうしなければ、もっと大変な事になるから、仕方が無いのだと、自分に言い聞かせるような心持ちで、見に染み付いた奴隷根性のようなものに突き動かされながら、堪らず、白子の耳元で思い切り、パン!と音を出して蚊の命を奪った。
蚊の残骸は、岩と一緒に発掘された化石のように黒子の掌に張り付いた。
白子は、ようやく今の音で黒子の方を向いた。
まるで今まで、黒子の存在など知らなかったように、世界に自分一人しか居ないような澄んだ瞳で黒子を見つめた。
「なあに、今の音」
音に驚いた母親が襖を開けて、やってきた。
この家はどこもかしこも虫除けがしてあって、虫が入り込んで来る事はあまり無い。
そして、家族全員が虫が苦手で、数少ない侵入者は、大概はスプレーで退治してしまう。
「……蚊がいたから」
「ああ、そうだったの、やあねぇどこから入り込んだのかしら」
そう言いながら、母親はすぐさま白子の元へ駆けつけ、蚕が吐き出したような絹の髪の毛をかきあげて、首元や顔周りを丹念に見渡した。
恐らく、白子の肌に虫刺されが出来ていないか確認しているのだろう。
この馬鹿な母親にとって、そういう事は完璧な陶磁器の焼き物に些細なヒビがあるように感じるのだろう。美しいものは、何事も完璧でなければならない。それがこの女の心情だった。
異常だ、学校のクラスメイトのどの子も、母親にここまで世話を焼かれたら、反抗期どころか、彼氏がいれば家出するかもしれない。
そう思いながらも、言ったところでこの女の耳には入らないだろう。
当の白子は、嫌がるどころか、飼い主に身を任せて毛を梳いてもらう犬のように、従順に振舞っている。
―もしかして、私が黒子の頬を叩いたと思われた?
黒子の頭に一瞬、そのような考えが通り過ぎた。
蚊の死骸は、まだ手に張り付いている。
「いやね、汚い。早く手を洗ってきちゃいなさいよ。」
母親の、汚いという言葉は恐らく、黒子の手の黒点に向かって放たれた言葉でだろうが、黒子は自分自身に向かって、恐ろしく鋭利な槍が飛んできたように感じた。
そして、黒子自身も母親にそう思われていることを否定する材料を持っていなかった。
否定する気も起きなかった。
言葉と態度だけ見れば、白子より黒子の方がよっぽど年頃の娘と親の健全なやり取りに聞こえるのに。
黒子の、吐き出せない思いは、排水溝に流れ込んでいく水の音と一緒に消えてはいかなかった。

気怠い思いで、黒子は学校から帰ってきた。
家より学校の方がいくらか心が安らぐ。
親友、とまではいかないけれど仲良く話しをしてくれるクラスメイトもいる。
何より、学校には白子が居ない。当然、白子はまだ学校に通う年齢だが、母親は白子が外に出るのを良しとしなかった。
白子は、家の中から一歩も外へ出ることを許されなかった。
悪い虫がつく事や、この美しさを人目に晒されることを母親は嫌がった。
庭でさえ、白子は満足に歩いた事がないかもしれない。
幼い頃はもっと、二人で仲良く辺りを走り回っていたような気もするが、ある日からいきなり母親が、白子を外に出すことを禁じた。
黒子がどうして、と理由を聞いたら母親は、日焼けをしてシミなど出来たら大変だから、という言葉を返してきた。
「ほら、黒子にはこの麦わら帽子をあげる。だからほかのお友達と一緒に遊んでらっしゃい」
幼い黒子は、その言葉と古ぼけた麦わら帽子を受け取って、半ば追い出されるようにして遊びに行った。幼い黒子には、テレビで女優やアイドルが日焼けやシミがお肌の大敵、と言うのを聞いていたから、何となく良くないものだとは分かっていた。
じゃあ私は日焼けをして、シミができてもいいのだろうか?
そう思った時、幼心に冷たく突き放されたと感じたが、近所の子と遊ぶうちに、きれいさっぱり忘れて、家にばかりいる白子が逆に可哀想だと感じていた。
今思えば、親が唯一自分にくれたこの麦わら帽子さえ、買った新品ではなく、誰かの使い古しだ。
自分は、親にとって、たった数百円の日除け帽を買い与える価値もない。
対して白子は、深窓の令嬢のように、硝子の花を労わるように大事にされている。
成長した黒子は、それが世間一般からだいぶずれた、子供への接し方だと分かっていても、嫉妬を感じずにはいられなかった。
白子は、穢れた外界から隔離され、親の決めたガラスケースの中にお行儀良く収まる人形だ。
だから、少し外の空気を吸う、という事も叶わない。
外出ができる、ということは黒子にとっては数少ない、白子に優越感を感じられる出来事である。
けれども、どうしても自分にないものばかりが気になる。
黒子の外へ自由に出れるという特権も、自分があまりにも持っていないものが多すぎて、数少ない自分の持ち物に浸って幸せだと無理矢理にでも感じて、心を麻痺させているように感じられる時もある。
逆に言えば、白子は、親にとって、手元の鳥籠に大事にしまっておきたい程の愛玩鳥で、黒子はどこへ行こうと、どうなろうと一切構わない、気にもかけない電線に止まっている野鳥の中の一羽でしかない。
もちろん、白子にするように自分に振舞って欲しい訳でもない。
今更そんなふうにされたら、息苦しいどころの話ではない。
何故もっと普通に、皆がしているように普通に日常生活を送れないのだろう。
あんな親でも、見た目の美しさばかり気にして、黒子の心の中を省みもしなかった酷い親でも、まだ愛されたいと思っている自分が腹立たしかった。

部屋のよく陽の間たる場所に、白子はいた。
白いレースのカーテンが、花嫁のベールのように、天使の羽根のように、広がりながら風に舞い、光を弄ぶようにばらけさせている。
その光の真ん中に立っている白子は、王宮のシャンデリアの光を祝福のように受け取っている、皆から愛されるお姫様のようだ。
薄暗く光のささない玄関に突っ立っていた黒子は、堪らず駆け出した。
黒子は、白子の身震いするほど素晴らしい白い首に手をかけて、思いっきり絞めた。
意地悪な継母に白雪姫を殺めよ、と命じられた猟師がもし、非情で冷血で、魔女に忠誠を誓った男だったのならば、間違いなくこのようにしただろう。
黒子の心も、もはや悪魔に忠誠を、いや悪魔が乗り移っていた。
黒子の周りの黒い霧は、少しずつ少しずつ黒子の心を蝕んでいた。
灰色の雲に遮られて、日が照らない森から緑色が抜き取られ、葉が枯れ果てていくように、黒子の心は真っ黒な憎悪に満ちていた。
知らないうちに、絵筆が色んな感情の色を混ぜ込んでしまっていた。
自分がそれに気づいていれば、こんな暴挙に出ることは無かったかもしれない。
そう思っても、もう遅い。
恐ろしい悪魔は、黒子の心を乗っ取り、勝手に両腕に力を込めて、目の前にいる、この世で最後の天使を殺そうとしている。
シミどころか、日焼け痕一つない真っ白い積雪の大地のような首に、黒子の手が、野蛮な蔓植物のように蔓延り、白子の皮膚と生命を侵す。
苦しいはずにもかかわらず、助けを呼ぶどころか、呻き声一つ、白子の端正な形の唇から上がらなかった。
それどころか、喉を締め付けている黒子の手を、常に磨かれて爪が輝いている自分の手で、押さえようともしなかった。
白子は、自分が実の妹に首を絞められ、憎しみの炎で焼き殺される状況でさえ、その顔から微笑みの仮面を外さなかった。
白子は、本当に自分では何も出来なかった。
白子の、細かい皮膚の皺でさえ、均等な配置を持って置かれている精巧な柱細工のような美しい腕は、そのままだらん、と床に、死んで仰向けになった情けない魚のように、伸ばされた。
やがて、白子の口から、一筋の赤い糸のように血が流れてきた。
それを見た黒子は、自分の指でその生き血の糸を絡め取り、白子だったものの唇に、そっと、壊れ物の硝子細工に触れるように、塗りつけた。
死化粧のように紅をさされた白子は、継母にその美しさを妬まれて殺されかけた白雪姫のように、よりいっそう白の美しさが極まった。
宵闇から這い出た、醜い心の魔女のように黒子が妬んだ白雪姫は、今は真珠か、雪華石膏で切り出した像だろうが、はたまた硝子の棺で眠る、眠り姫か。

天使の白い美しさは、今はもう、優しい死神の白になっていた。
窓から差す、白子を包んでいた祝福の光は、蕩け落ちた夕陽になって、濃く上品な菫色の空から、脱落しかかっていた。
熟れた真っ赤な林檎は、やがてどす黒く醜く腐り果て、落ちるだろうが、白子の唇の赤は、どれだけ時が経とうとも、褪せることなくそこにあるだろう。
紅花で拵えた、玉虫色に光り輝くどんな紅でも、神聖な生き物のどんな生き血でも、きっとこの赤にはかなわない。

「前からずっと貴方には、赤い色が似合うと思っていたの」

高貴な白を纏った、雪の女王治める台地に、情怨の曼珠沙華が咲いたようだった。

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