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象牙滓

万魔街に、夕刻の赤い冥火が垂れ込んできて、いつもの様に、歯の量り売りがやって来た。
目が荒い上に、ところどころ破れ、襤褸同然の編み笠を被った年老いた盲の男の顔は、生きるのに絶望した鰐か、先の尖った顔の昆虫を思わせた。
天秤棒の左右に下げられた底の浅い笊には、様々な形の歯がぎっしりと積められている。
盲の男は、骨の上に申し訳程度に肉付けされ、皮がそれを何とかつなぎ止めている細い足で歩くので、よろめく度に、笊の縁に白い漣のようにして留まっていた歯の幾つかが、ぽろぽろと零れ落ちた。
それに、飢えた子猫のような機敏さで、獣の頬に虫の肌、魚の睫毛をもつ子供達がさっと集り、我先にと取り合って、服のポケットに連れ去ろうとする。
私は、量り売りが埃と砂で毛羽立つ道端に、茣蓙を引いて座り込んだ瞬間に、何の気なしに、目の前に立ちはだかった。
量り売りは、自分の正面に影ができたことを、客がやってきた合図の光の加減を、瞼の裏側の眼玉で感知して、ごく浅く、顎を突き出してだらしない礼をした。
私は、そのまま盲の男の左右に置かれた笊の中身を眺めた。
焦げた歯、火膨れのある歯、上下に牙状に生えたもの、砂か貝殻の破片のような趣のあるもの、有孔虫の殻、小動物の脊椎のようなもの、海岸に流れ着いた、小さい海鳥の頭蓋骨のように、淡い色をしたもの、月から剥がれ落ちた皮膚のように薄いもの、水晶のように透き通ったもの、碧玉のように濁ったもの、丸ごと金や銀で出来ているものもあり、ところどころ錆びているものもある。
砂鉄礫を付けたものは龍種の口から抜け落ちたものか……、その鱗だらけの死体から抜き取ったものだろうか……。
生きた体を持たないものの歯も、ある。ほとんど色のない小粒達の中で、微光を発しているものを指でつまもうとすると、霜が溶ける時のように気体と液体に別れて、溶けてしまった。
笊の中には、生まれついた痣のように罅割れを身に施したティーカップが、砂漠の中の難破船の格好で埋もれていた。


私は、そのティーカップを手に取って、蟻地獄の巣の上澄み液を救いとるように、笊で区切られた塵芥の海の中を泳がせてみた。
掬うと、真空の中身にはどっさりと、歯が詰まっていた。
量り売りは、ざあっとした深夜の波に近い音を聞き終わると、両の手を私に差し出してきた。
鶏がらよりもみすぼらしいその手に、私は持っていた陶器の杯を、罅をこれ以上広がらせないように、慎重に渡した。
量り売りは、名付けを願われた赤子を受け取るように厳かに抱え込むと、懐から茶色い綿の巾着袋を取り出した。
袋の口も、布の間の虚空の大きさも、ティーカップより大きく、すっぽりと入ってしまう。
そのまま、陶器の入れ物をゆっくりと傾けると、豆粒で出来た崖が、緩やかに崩れるような音がした。
外界に幾つか歯が零れるような心配は、杞憂のようだった。
そのまま、手で袋の紐をぶら下げて、中身の重さを図る。量り売りは、接骨木のように枯れて節ばった指で、三つ、と示した。
私も、同様に懐から瓶を取り出すと、対価の数として相応しい、同じ数に切った爪を出した。
これは、贋金を渡すのとそう変わらない、しかし、
なぜだか、そうしなければならない、と思ったのだ。
変わった貴金で御座いますね。
指先で触れ、匂いを嗅ぎながら、量り売りは純粋な疑問をぶつけてきた。
それは、象牙の削り滓だよ……。私は、そう罪悪感もなく、ほざいてしまった。
はあ、左様でございますか。
量り売りは、私の顔があると思われる方向に、少しばかり身を太らせた茶色の袋を差し出した。
私は、こちらだよ、と声をかけるのは、礼儀に悖るように感じて、袋に入った中身分ぐらいの身じろぎをして、小禽の雛と似たような袋を受け取った。
量り売りは、出会った時と同じように、顎を突き出しながら、礼をした。

袋を握って歩いていると、手の平には、たらふく歯粒を溜め込んだ小禽が、綿布の腹を抱えて、仮睡をしているような熱が宿る。
深く息を吸い込むと、沸騰した膠のような、重苦しい匂いが、大気に少しだけ混ざっている。
そういえば昨日は……正確には時計の針が今日の日付になってから、そう経ってない時間帯には、土砂降りであった、ということを思い出した。
喉を乾きを覚えて、ふと目が覚めたのだが、温い蒲団から這い出でる気分になれずに、孵化する時間をとっくに過ぎた、繭の中で腐っていく愚鈍虫のようにぐずぐずとしていると、はるか上から、叩き上げる音がひとつ響いた。
その後にもうひとつ、もうひとつ、と追いかけるように音が聞こえてきて、寝ぼけた家禽たちの朝餌を啄む音の速さを越し、やがて、矢衾から狙われているのじゃないか、と勘違いするほどの轟音が鳴り響いた。
私は、怯えた。
妻は、私のそんな気配を察知して起きたのかもしれない。
粘つく液体が頭上から降って来て、屋根板にぶつかり、ぺたん、ぺたん、と狂った大合唱を鳴らすのを、私は、妻と床で聞いていた。
私は蒲団に潜り込んだまま、自分の心音をのぞいた一切の音を聞いてやるものか、と知覚を遮断しようと懸命に堪えて、結局、喉も乾いたまま、五感のうち二つを不快さに支配されて、そのまま寝入ってしまった。
そのせいだろうか、全くもって奇妙な夢を見た。
奇跡的とも言える宵闇の土砂降りの中で、嫌味なほどに立派な礼服と革靴を着付けただけの男の足が、踊り狂っているのだ。
膝から上は、したたる闇の中に溶けいって見えないだけなのか、それともはなから無いのか、恐れもせずに近づいた。
上から覗き込むと、身体があるはずの場所に、私の頭はぶつかる感触もしない。
膝の切り株の中には、輪切りの黒があるばかりである。
ぺたん、ぺたん、ぺたたん。
現では、不粋に轟音を鳴り響かせる気象音は、幽冥の境の国では、この名ダンサーの舞踏曲らしい。

私は、自分のつまらない、変わり映えしない足元に目をやったあとに、ふと上を向いた。
濃い灰と憂鬱を掻き混ぜた曇り空ではあるが、いきなり漏れだしてきそうな顔立ちではなかった。
眼の端に、錆びた金の罅割れが映りこんだ。
その主は、深夜の雨で金色を全身にこびりつかせた、骸木であった。


細い細い枝先は、完全には金に侵食されておらず、僅かに木の幹色が覗いていた。
私は近づいて、その中で手頃な大きさの枝を握りしめ、手折った。
枝は、上から降ったまま冷え垂れた金に囲まれて、腐ることも枯れることも出来ずに、石のように固くなっていた。
その木の根元では、小禽が羽をばたつかせながら、苦しんでいた。
生き物の熱で固まれなかった金は、そのまま体表の上を彷徨うしかなく、気味の悪い粘液から小禽が脱出しようと藻掻けば藻掻くほど、自身の羽毛を汚すだけであった。
おそらく、あと小一時間もすれば小禽はぐったりと動かなくなり、その小さな体は、そのまま金と一緒に鉱質に固まるだろう。
そんなものをぼんやり眺めていたら、目の前に水銀と一緒に型に押し込められて、焼かれたような燕が飛んで行った。
よく見るとそれは、背の低い子供の髪飾りであった。
燕は、銀と一緒に硬化した元の目を砕かれ、代わりに、中に歪な気泡を宿した真珠を二つ、嵌め込まれていた。
そういえば、この前は銀の雨が降っていたような気もする。
私は、手折った枝に全く価値を見いだせなくなり、金樹の根元に放り出した。

穴熊の棲み家のような家に帰ると、妻はピアノを弾いていた。
歯車の噛み合った肩が、いつもより勢いよくぐるぐると回っている。
どうやら、機嫌がいいらしい。
針金の指ではじかれる、音を出す鍵盤の歯はひび割れ、上一面をごく薄い氷で覆われているだけで、なんとか形を保っている。
このピアノを引けるのは、針金の……熱の全く伝わらない体を持つ妻にしか出来ない芸当なのだろう。
一曲聴き終わったのだろうか、音がやんでから、しばらくすると、後ろ姿だけの妻はその冷たい体に似合わず、ぶるりと身震いをした。
急に、首だけこちらを向いた。
あら、おかえりなさいまし。
妻の図体は大きく、厳つくも見えるのだが、声は霞の花を啄む小禽のように、可憐であった。
あなた、とけたあめに、あたりませんでしたの、おきたら、ふとんがもぬけのからなんですもの、しんぱいしましたわ、あなた、はだにあめがあたったら、かぶれて、はれてしまうたいしつなんですから、あまり、しんぱいをかけないでくださいね。
不思議な抑揚の声が、耳の中に心地よく響く。
あぁ、もうすっかり雨は固まっていたよ。
そう言いながら、私は妻に、茶色い綿の巾着袋を差し出した。
妻は、名ピアニストなだけでなく、歯のコレクターでもあった。
この粉砕歯のピアノもある意味、コレクションのひとつだと言えるかもしれない……。
妻は、細い指で紐を引き、袋を開けると、中の歯をひとつ摘んだ。
子供が、硝子の破片を宝石に見立てるように、電燈の光に透かして眺め、おもむろに、口に放り込んだ。
その様子は、硝子玉こそ不死の霊薬だと気づいた子供が、濁った目を持つ親の必死な静止も聞かないで飲み込むのに、よく似ていた。
あら、これあじもなかなかだわ。
あとで、こうちゃにもとかして、いただきましょう。
妻は、自鳴琴箱のドラムと振動弁から成る口元を、針金の手で抑えながら、こう言った。

とある日、日課である、伸びてきた爪を切り、瓶に集める行為をしていたら、隣で、せっせと妻が何事かを拵えていたので、 ひょいと覗いて見た。
なにか細長い……針金かなにかで作られた土台の上に、歯を載せて、糊で貼り付けていた。
よくよく観察すると、妻の指が何本が新しくなっている。
それを、私がやんわりと指摘する前に、妻はこちらに向き直って無邪気に笑った。
私にしかわからない、笑い声だった。
妻によると、これは名前は、はっきりとしないが、矯正やら、入れ歯やら、歯型というものらしい。
白い燐酸の骨組みに、肉と皮で作った水袋の中に赤黒い鉄の水を留まらせて暮らす世界では、こうやって、歯並びを理想通りの形になるように、術技師に対価を払って親が子供に施す。
一種のまじないのようなものだとか……。





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