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盲金魚ー和金

盲金魚ー水泡眼、の番外編のようなもの。



アタシは、名無しの権兵衛だった。
親は二人とも、ろくでなしで、名前どころか最低限の世話もしてくれなかった。
アタシが赤ん坊の頃は、少なくとも乳はやってたのか、それとも知り合いに預けていたのかは、知らない。
けど、物心つくようになるまで、生きてはいられたんだから、そのどちらかではあったんだろう。
ある日、隣に越してきた子に、名前を聞かれた。
アタシは、豆鉄砲をくらった鳩みたいな顔になりながら、どう答えようかと考え込んでしまった。
仕方なく、女の子だったから、ごんと答えた。
隣の子は、この本の狐の子みたいだね、と笑いながらぴかぴかの絵本を見せてくれた。
初めて見る綺麗な絵と話に、アタシは夢中になって、見入っていた。
それから、ことある事にその子の家に遊びに行った。子供なんて無邪気なもんだから、アタシが家でどんな扱いを受けているかなんて、全く知らなくても、仲良く遊んでいた。
ところが、ある日その子が、泣きながらアタシに伝えてきた。
「お母さんが、もうあなたと遊んじゃ、いけないって……」
どうやら、その子の両親は、アタシの親が満足に飯も与えずに、ほったらかしていることを突き止めたようで。
自分の子に、何かあったら困るから、アタシと遊ぶことを咎めたんだろう。
そういえば、最初に挨拶をした時に、やたらとアタシのほうをじろじろ見ていた。
多分、同じくらいの子と比べて、かなり痩せていたのが気になったんだろう。
その子は、何度も何度も謝って、むしろアタシのほうが申し訳なく思うくらいだった。
それから、めっきり顔を見せなくなってしまった。
分かっている。悪いのはあの子ではない。
あの子の両親も、あの子を思ってのことだ。
一番悪いのは、アタシの両親。
けれども、それをあのろくでなし共に追求したところで、なんの意味もないのは分かっている。
いつもの様に、返事もしないで、アタシの顔を見向きもしないで、無視するんだろう。
ずっと前から、何を言っても、そうだった。
分かってはいる、分かってはいても、ようやく出来た友達とも呼べる子を、理不尽な理由で無くすことになったのが、我慢ならなかった。
アタシは、どうしようもない怒りのせいで、涙を流しながら、怒鳴った。
「アンタ達のせいで、アタシの人生めちゃくちゃだ!何もしてくれないなら、どうしてアタシなんかを産んだんだ! 」
飛んできたのは、罵声ではなく、硬く握った手だった。
子供に対して、自分の思いが報われないような、どうしてそんな事を言うの、というような意味のものでなく、五月蝿いから黙れ、という獣を躾ける時のような。
そんな意味で殴られた、という事が、ちっちゃいアタシでも、嫌でも分かった。
殴った父の目は、アタシの方を見るでもなく、虚ろな目を、向こうの方へ向けている。
母は、そんな父を止める仕草も見せず、部屋の隅で、何かブツブツ言っている。
アタシは、堪らなくなって、家を飛び出した。
どこへ行くの、という制止する声はもちろん聞こえなかった。
このまま、どこかへ行ってしまおう、そうすればアタシは自由になれる。
何か、他に助けを求めれるものがない子供が考えることなんて、そんなものだった。
けれども、実際は腹がすいて、電信柱の足元に蹲るのが、関の山だった。
当たり前だ。普段からろくなものを食べていないのだから。
アタシにとって、食事とは楽しむものではなく、生きるために、必要最低限のものを、体の中に入れる、という意味だった。
たまに、隣近所のおばさんとかが、両親のいない隙に、夕飯の余りとか、煮物の残りを持ってきてくれることもあったが、それだけで足りる訳が無い。
それに、おばさん達の目が嫌だった。
見るからに、哀れな子に施しをしている、というような感じで。アタシは、食べ物を貰うことに関しては、ちゃんとお礼を言ったが、気持ちがこもっていないだの、やっぱりちゃんとした教育を受けてない子は、可哀想だね、という声を投げかけられてからは、おばさん達から食べ物を受け取らなくなった。
おばさん達は、こんなに世話をしてやっているのに、という顔をしながら、去っていった。
……人なんて、そんな程度のものなんだ。
アタシが腹を鳴らしながら、そんな考えに耽っていると、手を繋いで、歩く親子連れが目に入った。
その子は、お母さんに甘えた様子で、今日の晩ご飯はなあに、と聞いていた。
お母さんは、今日はあんたの大好物を作りましょう、と答えて、子供は大はしゃぎで、家へと連れ立って、帰って行った。
アタシは、どうしてあの幸せそうな家の子に生まれなかったんだろう、と感じた。
自分と、さっきの子の境遇と比べて、嘆きや悲しみというより、二つの状態をどこか俯瞰したような感じで、純粋に疑問に思った。
だって、生まれる家が違うだけで、こんなにも幸せに差が出るのだ。
アタシが、あの子の家に生まれる可能性もあったし、あの子がアタシの家に生まれる可能性もあったんだ。生まれた時から、神様なんて信じていなかったけれど、もしこれが神様なんていう奴のしわざなんだとしたら、アタシはそいつの頭をかち割って、脳みそを引きずり出してやる、と思った。
そう考えているうちに、また腹の虫が鳴った。
アタシは、しょうがなく、近くの店まで行って、盗みを働こうとした。
八百屋の前まで行ったところで、わざとっぽく手を後ろに組んで、くねくね歩きながら近づいた。
「おっなんだい嬢ちゃん、お使いかい?まだちっちぇえのに、偉いねェ」
八百屋の親父は、人の良さそうな顔を向けて、アタシに優しく言った。
馬鹿な大人だ、どの家の子も普通に暮らしていると思っている馬鹿な大人、とアタシは思いながら、並べてある商品に目を向けた。
林檎に、梨に、柿に葡萄、大根、ほうれん草に、人参。ざっと見ただけで、これほどの果物や野菜が、ザルにのって並んでいる。アタシは、一瞬で考えを巡らした。
そのままでは食えないから、他の野菜は無しだ。果物なら、林檎や梨はかさばるから、隠し持つ事は出来ない。
葡萄は駄目だ。いちいち皮を向かなきゃいけないのが、面倒だし、その割に、小粒だから腹の足しにならない。
それなら、手ごろな大きさで、幾らか腹の足しになる柿辺りかな、と目星をつけた。
皮なら、そこらの硝子片で傷をつけて、向けばいい。
そう思いつき、親父が店に寄ってきた、他の客と話し出すのを待った。
少しも立たないうちに、今晩のおかずか、何かを買いに来たのであろう女が、やって来て、親父と世間話を始めた。アタシは、しめた、と思い柿をいくつかサッと懐の中へとしまい込んだ。そのまま、走り去ろうとした時ー
「おい、待ちな」
店の親父の力強い腕が、アタシの肩を掴んだ。
「アンタ、今うちの商品を、黙って持っていこうとしただろ」
親父の顔からは、さっきの、にこやかな表情は消え去り、代わりに岩で出来た鬼の顔のような、厳しい表情になっていた。
傍の女は、信じられないものを見たような、顔つきで口を抑えている。
「おい、その隠しているもの全部出せ」
アタシが硬直しながら、一体どうしようと思っていると、親父が大声を出した。
「なんとか言ったらどうなんだ、あぁ!?」
殴られると思って、アタシは、目をぎゅっとつむるしか無かった。
けれど、そうしていても拳は飛んでこなかった。
そっと目を開けて、おそるおそる親父の方を見ると、真っ黒な出で立ちの男に、振り上げた腕を掴まれていた。
親父の方が、筋肉も腕力も勝っているだろうが、男は、特に力を込めたふうでもないのに、親父の動きを完全に止めていた。
「店主、子供に暴力は良くない」
夜の静寂のような、凛としながらも少しも気負った感じがしない、威風堂々とした声で、男は言った。
親父は、狼狽えながら、アタシを指さした。
「そう言うけどな、アンタ。この子はうちの商品を盗って行こうとしてたんだ。子供だからって盗みは許せねぇ」
黒い男が、アタシの方を向き、その場に膝をついて目線を合わせてきた。
「君、この人の言っていることは、本当かな」
男は、水面に映る月のような、正直さに透き通る瞳を、アタシに向けてきた。
アタシは、何故かこの目に嘘はつけない、と感じて、懐にしまい込んだ柿を、男の方へ差し出した。
男は、柿を親父の前に持ってくると、
「私が買いましょう。なら問題はないですね?」
と聞いた。
親父は、最初面食らったようだったが、しぶしぶ了承した。
男は、アタシに向かって、真っ向から聞いてきた。
「盗みをするほど、生活に困っているのかい」
アタシは、首を縦に降った。
「ご両親は」
男の、ただ聞いている姿勢の質問に、アタシは泣きだしそうになりながら、答えた。
「二人ともいるけど、何もしてくれない、……盗むのは良くないって分かってるけど、そうしないと飢え死にしちまう」
アタシは、どうせこの人は何もしてくれないくせに、哀れっぽく慰めて、終わりなだけなのに、如何して言ってしまったんだろう、と思った。
「私と一緒に、来るかい」
男は、優しい表情で手を差し出した。
アタシは、
「どこへ」
と聞いた。
「私の屋敷にさ」
アタシは、もう何がどうなってもいいや、と言う気持ちで、この真っ黒な男の手を取って、ついて行った。
どうせ金持ち相手に、股を開くか、外国にでも売られるのだろう、と思っていた。
男は、馬車にアタシをのせて、屋敷へと向かった。
途中、買った柿の皮をナイフで剥いて、食べなさいと、全てアタシにくれた。
アタシは、夢中になって柿にむしゃぶりついた。
眠くなると、男は、硬いかもしれないが、自分の膝を枕にしなさい、と言ってアタシを横にならせた。
馬車の心地良い揺れに合わせて、アタシは眠りに落ちた。
気がつくと、見知らぬ部屋のベッドの上だった。
そのまま、ぼうっとして辺りを見ていると、部屋の入口から、太った女の人が出てきた。
その女の人は、自分のことを「らんちう」だと言った。
金魚みたいな、変な名前、と言ったアタシを怒りもせずに、
「そうだね」
と自分でもおかしい風に、笑った。
しばらくしてから、その人は、暖かい野菜が煮込まれた汁物を、持ってきてくれた。
アタシが、そのままでいると、らんちう姐さんは、
「冷めないうちに、食べなさい」
と優しく告げた。
アタシは、匙に一口分の汁を救い取ると、そうっと口の中へ運んだ。
それは、とても暖かく、アタシの口の中に染み込んできた。
気がつくと、アタシは泣いていた。泣きながら、汁物をかきこんでいた。
らんちう姐さんは、
「火傷するから、落ち着いて食べなさい、……大変だったね」
と言った。
アタシは、大粒の涙を流しながら、もう無我夢中で食べていた。

「もう、すっかり体は良さそうだね」
旦那様に、そう聞かれて、アタシはお土佐姐さんに教えられた通りに、
「はい」
と返事をした。
旦那様は、うん、と満足そうに呟くと
「そうだね、じゃあ君の名前は……和金、これでどうだろう?」
「ありがとうございます」
アタシは、アタシを救って、暖かい寝床も食べ物も、居場所もくれた、神様みたいな名付け親に向かって、深い深い一礼をした。
着るものも、成長期の手足に、もう追いつかなくなった袖の古着ではなく、旦那様から渡された朱色の高価な着物になって。

アタシは、その日から名無しのごんではなくて、『和金』になった。

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