『 天使。 』-第1話


夢、かと思った。

花弁のように、はらはらと舞い降る真っ黒な羽根。その中央で真っ赤な瞳を光らせながらジッとこちらを見つめているソイツ。窓の外が夕暮れで満ちているのも相まって、その姿はさながら美しい烏の如く。


「いや、勝手に死なれちゃ困るんだけど」


烏が鳴く。淡々と冷酷に落とされた声に、言葉が詰まる。ただひたすら、離しかけていたベランダの欄干を、後ろ手に握り直すことしかできなかった。


冷酷悪魔? と 一般青年? の話




刹那、ふわりと身体が浮いて、声を上げるよりも先に部屋の中へと放り込まれた。幸いクッションの上に乗っかったが、ローテーブルに肩をぶつけてしまい、鈍い痛みが体に響く。

歯を食いしばって耐えていれば、バサリと音がして目の前に影がさした。真っ黒なローブをたなびかせ、こちらを見下ろすソイツに、頭の中が激しく警鐘を鳴らしはじめる。

逃げろ。コイツはやばい、逃げろ!

遅れて身体が反応し、床を蹴って踵を返そうとする、が。


「逃げんな」
「っ、!」


音もなく前方に回り込まれ、身体が硬直する。額に冷や汗が滲み、呼吸が浅くなる。今まで感じたこともない恐怖が全身を包み込んで、絶対に逃さまいと締め上げてくる。


「あのさ、悪いけど俺いま気分悪いの。なんでか分かる?」
「わ、かんねぇ、けど……」
「じゃあ教えてやるけど」


ソイツはそう言うなり、つかつかと俺へ近づいてきた。その間もやはり脳は警鐘を鳴らし続けているけれど、身体が全く言うことを聞かない。逃げないとやばいと本能的に理解しているはずなのに、逃げたら殺されるんじゃないかという思考がぐるぐる回ってしまう。

やがてソイツがすぐ眼前で足を止め、腰を折って俺の顔を覗き込んできた。嘘みたいな真紅に色づいた瞳に射抜かれて、思わずひゅっと息を飲む。


「おまえら人間がばんばん死ぬせいで仕事が終わんねえからだよ!!!!」
「……はっ?」
「はっ? ってなんだよ!? おまえみたいなヤツらが、ばんばんコッチ来るおかげで俺ら冥界統率委員会めいかいとうそついいんかいは大忙しなの!! 迷惑してんの!! 分かる!?」
「はっ??」


えっ、なに? なんて??
頭上いっぱいにはてなマークを浮かべながら首を傾げる俺を見て、ソイツは馬鹿でかい溜息をついて「これだから人間は……」とブツブツ呟く。


「あー、人間にも分かるように言うと。本来、生命がコッチ……おまえらが言う『あの世』に来るペースって大体決まってんの。昔の昔、大昔からな。だから俺たちは、コッチに来る生命の数を予想して合わせながら仕事してんの」
「仕事?」
「そ。ちなみに俺、冥界統率委員会案内係は、コッチに来た生命の善行とか悪行とかを照らし合わせて、その後の行く先を指定して案内する係」
「行く先?」
「おまえらで言う『来世』な。なのに近年、おまえら人間が勝手にばんばん死にやがるせいで、こっちの対応が追いつかないわけ」
「対応?」
「さっきから質問多いなあ!!!!」


くわっ! と凄まじい勢いでツッコまれてしまった。
あれ、思ったより怖くないな。なんかすごいグイグイ距離詰めて話してくるし。


「もういいや、人間と対等に会話しようとした俺が悪いわ……」
「あのさ、さっきから本当に意味が分からないんだけど……そもそもお前はなんなの?」


冥界統率委員会? あの世? 来世?
なにがなんだか何一つとして分からない。

それにさっきから人間人間って、まるで自分はそうじゃないみたいな言い方。立ち姿からして常人でないことは確かだけど。


「天使だよ」


しれっと。
本当にしれっと、さも当然のことのように、はっきりと言い放たれる。

天使……天使って、あの天使? エンジェルの天使?

窓から吹き込んだ風に舞う羽根を見て、もう一度ソイツを見る。微塵も動じる様子のない表情からは、確かに人の温度を感じない。……けど。


「見えない」
「は?」
「全ッ然、天使に見えない」


だって天使っていえば、もっと白くて、なんかふわふわしてて、神々しいオーラ的なものを纏ってるもんだろ。

思いながら、改めてソイツの頭の先からつま先までじっと眺める。一度も染色なんてしたことなさそうな艶やかな黒の髪に、宝石のように光る赤の瞳。俺より頭半分ほど低い身長と、その全体を包む真っ黒なローブ。背中にはソイツ一人をまるっと覆い隠せそうな大きさの、烏のような漆黒の翼。

天使というか、どっちかといえば悪魔に近いような……。

思ったことをそのまま口にすると、自称天使はぽかんと目を丸くして俺を見つめてきた。しばらくそのまま固まっていたかと思えば、「はあ?」とめんどくさそうに顔を歪める。


「天使だっつってんだろ。どんなの想像してるか知らねえけど、おまえらの想像と俺ら本物が必ずしも一致してるわけじゃないんだぞ。大人しく受け入れろ」
「にしては一致してなさすぎだろ……」
「こっちの台詞だわ。そっちの勝手な想像を軸にして考えるのやめてくれる? 何でもかんでも自分が中心だと思って生きてたら、人生ぶっ壊れるぞおまえ」
「人外に人生について諭されても……」


……ああ、分かったぞ。目の前の自称天使を見上げながら、ふっと思う。

これは俺の幻覚だ。きっと頭がバグって、よく分からないモンを生み出してしまったんだろう。うん、絶対にそうだ。そうじゃなきゃ説明がつかない。

そう言い聞かせながら立ち上がる間も、自称天使は「なんだよ」と俺を睨み続けている。
脳のバグって、自覚しても治らないもんなんだな。……まったく重症だな、俺も。


「最期くらいゆっくりさせろよ」
「……!」


自称天使の横を通り過ぎ、ベランダに出る。欄干に手を掛けて身を乗り出し、夕日とともに重力に従って空気に沈む。

終わりだ。俺も、なにもかも。


「"ステイ"」


ズン、と空気が重くなる。次の瞬間、落下する感覚が失せた。


「……は?」


……身体が動かない。頭から爪先まで、感覚はあるのに動かせない。落ちた姿勢のまま、空中でピタリと静止しているのだ。
風に舞う木の葉も、枝から羽ばたこうとしている鳥も、歩いている人々も、何もかもが動かない。まるで写真か絵画に映されたような光景に、ただ唖然とする。


「"リターン"」


パッと視界が切り替わり、足が地につく。目の前には、つい先ほど飛び越えたはずのベランダの欄干があって、微かに開いた口元から「は?」と掠れた声が漏れ出す。


「勝手に死なれたら困るっつってんだろ」


声を振り向くと、そこには自称天使が立っていて真っ直ぐと俺を見つめていた。真っ赤な視線に射抜かれた途端、ゾクリと背中が粟立った。

……幻覚じゃ、ない?


「死ぬな。おまえにはまだ未来があるだろ」
「……なんだよそれ……」


ようやく出た声は少し掠れていた。ごくりと唾を飲み、全身に染み付く恐怖を振り払うように息を吸い込む。


「俺のことなんにも知らねぇクセに」


未来は明るいよ。生きていたらいいことがあるよ。
そんな根拠のないセリフ、俺は微塵も信じてないんだよ。


「生きるも死ぬも俺の自由だろ」
「口答えすんな」


トンッ、と爪先で床を叩く音に肩が強張る。思わず後ずさるも、その分距離を詰められてしまった。


「いいから黙って大人しく生きてろ」


降ってきた声は嫌に冷たく、鋭く、俺を突き刺した。




真っ黒天使 と 死にたがり の話。




雨野空あまの そら。25歳。ごく普通のサラリーマン。
最後に自炊をしたのはいつだったか、もう覚えていない。

出来上がった二人分のカレーをテーブルに置き、水を注いだグラスを差し出すと、自称天使は頬杖をついたまま表情を変えずに口を開いた。


「いや俺食べないけど」
「お前食わねぇの!?」


そもそも俺、雨野空がいつぶりかも分からない自炊をしたのには理由がある。突然目の前に現れ、現在ローブを脱いでちゃっかり寛いでいるこの自称天使が、「とりあえずご飯食べろよ」と勧めてきたからである。

正直話の流れはよく分からないが、飯の話をされたら人間自然とお腹がすくものらしく、そういえば晩飯食ってなかったなと思い、コンビニ弁当を買いに行こうとした。

しかし、自称天使が「コンビニ弁当じゃなくて栄養バランスを考えた食事を云々」とか説教めいたことをぐちぐち言ってきたため、若干キレながら、言われるがまま簡単にカレーを作ってみたわけなのだが。


「じゃあさっきの説教はなんだよ。お前が食べたかったわけじゃないのか?」
「体調管理を杜撰にしてポックリ来るヤツらもいるんだよ。おまえにそうなられたら困るから、まずはちゃんと栄養を摂れって助言したまで」
「なんだそれ」
「あとあんまり美味くなさそう」
「清々しいほど失礼だなお前」


憂さ晴らしとしてちょっと強めにグラスを置きつつ、手を合わせて自分の分のカレーを食べる。

……本当にあんまり美味くなかったとかそういうわけではないが、やっぱりコンビニ弁当にした方が良かったかもしれない。本当にあんまり美味くなかったとか、そういうわけではないが。


「じゃあ本題に戻らせてもらうけど。雨野空、おまえにはいま死なれちゃ困る」
「いや、」
「口を挟むな。最後まで聞け。ややこしくなる」


もう既にややこしいし、なんならお前の存在自体がややこしいんだけど……。

思ったが口にはせず、代わりにカレーをもそもそと咀嚼する。すると自称天使は満足したのか、胡座をかいて話を続けた。


「さっき説明したけど、いま冥界には大量の生命がばんばん押し寄せてきている。一人分の対応を終えたと思えば、五人の新しい生命が増えてる状態だ。例えるなら……うん、無限渋谷ハロウィン的な混雑具合だと思ってくれ」


お前天使なのに渋谷ハロウィン知ってんのかよ……と思ったが、口を開いてもどうせすぐ注意されるだけなので何も言わずにジッと話を聞く。


「大昔の疫病蔓延期よりも酷い。だからお上の天使は、現世うつしよで最も命を落としている種族を調べた。その結果として出てきたのが、おまえら人間だ。正直意外だったよ。人間は現在、100年続いて生きることが可能な生命なのに、早いうちにコッチへ来る生命が増えているんだ。その理由、分かるか?」


首を振ると、自称天使は眉根を寄せて言う。


「自ら命を絶つ───自殺の増加だよ」
「………………」
「そのせいでコッチは混雑して、もうこれ以上、生命を受け入れられない状態にまで陥っている。しかしそれを知らない、たったの20年ぽっちしか生きていない人間は、この瞬間も自分の首を締め上げている。そして身勝手にも、ありもしない救済を求めてコッチへ押し寄せてくる。笑える話だよ、まったく」


微塵も表情を変えずに淡々と話す自称天使は、真っ直ぐに俺を見つめる。当てつけのような視線を見て見ぬフリして水を飲めば、長めの溜息が聞こえたがしっかり無視する。


「そこで。冥界統率委員会は現世に天使を派遣し、自殺を食い止めることになった。そうでもしないと、そろそろとんでもないことになるからな」
「とんでもないこと?」
「別に隠す必要もねえか……そうだな、簡単に言えば───全てが無に帰す」


思わず、逸らしていた視線を戻してしまう。全てが無に帰す? まったく想像もできないアバウトな表現なのに、それは妙な現実感を纏っていた。そもそも天使なんていう存在すらもファンタジーだというのに、少しずつ、その輪郭が濃くなっていく。


「……全て、が?」
「そ。具体的に言えば、冥界と現世の境目が破壊され、負荷に耐えられなくなったこの世界が崩れて消える」
「……??」
「ようは! 冥界がパンクして爆発! その爆風でこの世界は消滅! これでいいか? 分かったら自殺なんてバカなことやめろよな」


グラスを手に取り、一気に水を飲み干す自称天使。タンッ! とやや強めの音を立てながらテーブルに置く姿を見て、なんとなく理解しながら最後の一口を頬張る。


「そういう訳で、俺は冥界統率委員会案内係 兼 現世派遣係を務めることになった。そしてその標的ターゲットが───雨野空、おまえってわけだ」
「ふぅん」
「ふぅんて……まあいいや。とりあえず、今日から暫くおまえの見張りをさせてもらうから。そこんとこよろしくな」
「見張り?」
「そのまんまだよ。おまえが死なないよう見張る、ただそれだけ。まあ場合によっちゃ、さっきみたいに手を出させてもらうけど」


手を出す……って、さっき突然動きが止まってベランダに戻されたアレか。

思い出すだけで嫌悪感に苛まれる。つい眉間にシワを寄せる俺に対し、自称天使はしれっとした表情のまま俺を指さした。


「おまえは今すぐ死にたいんだろうけど、ご生憎様、世界の存続が懸かってるんだ。今のおまえには大人しく生きるほか道はない、諦めろ」
「……今はってことは、後々は死んでもいいってことか?」
「おう」
「はっ??」


死ぬな〜とか、生き続けろ〜とか言われると思ってたんだけど。予想外の返答に思わず間抜けな声を出してしまった。すると自称天使も同じように目を丸くして、不思議そうに首を傾げる。


「俺ら冥界統率委員会現世派遣係はあくまで、いま冥界に溜まってる生命を大方捌けるまで自殺者を増やすなって命じられてるだけだ。後々のことに干渉はしねえよ」
「はあ……なんか思ったよりドライなんだな、天使って」
「おまえらが夢見すぎてるだけだ」


自称天使はそう言うと、俺に手を差し出してきた。何かと思って見ていれば、不機嫌そうに顔を顰められた。


「握手だよ。これから一年は世話になるんだから、一応な」
「一応って……ちょっと待て、いま一年って言ったか!?」


握り返そうとした手を慌てて引っ込める。聞き間違いか? 空耳か? 頭がプチパニック状態になっている俺に、無慈悲にもソイツはあっさり頷く。


「おう。一年あれば冥界もどうにか対処できるからな。それまでずっと監視させてもらう」
「まじかよ……」
「いやなに被害者ヅラしてんだよ。元はと言えば勝手にばんばん死んでくるおまえら人間のせいだろが。反省しろバカ」


納得できないし受け入れられない。しかしなにも言い返せない。かろうじてぐうの音は出るが、それ以上の言葉が一切出てこない。

完全に言い負けた俺に、ソイツは再び手を差し出した。「ん」と促すように手を揺らす仕草を見て、深い溜息がこぼれる。


「これから一年よろしくな、人間」
「ああよろしく……クソ悪魔」
「だから天使だっつってんだろ!!」
「天使にあるまじき口の利き方だな!!」


きっと側から見れば俺とコイツは固い握手を交わしているのだろうが、そんなことはない。この力の出所は、俺もコイツもただの腹いせである。


..

雨野空。25歳。ごく普通のサラリーマン。最後に自炊をしたのは、ついさっき。
今この瞬間、悪魔みたいな見た目の天使に一年監視されることになった。

..



俺が勤める会社は、電車に20分ほど揺られてすぐの所にある。駅近の会社というと周りから羨ましいといわれるが、別に近かろうが遠かろうがあんまり変わらないのではないか、というのが俺の感想だし、正直に言えば俺の方こそ周りが羨ましい。


「おい雨野ォ」


自分のデスクに着いてすぐ、上司の野太い声がオフィスに響く。トントントントンと指でデスクを叩く音が耳を突き刺して、腹にどろりとした嫌悪感を抱えながら駆け寄る。


「はい」
「上司にはまず挨拶だろうが!」
「おはようございます」


声に突き動かされるようにして、気づけば頭を下げていた。すっかり癖になったこの動作も本来ならもうせずに済んでたのにな、と昨日の出来事を恨んでいると、またデスクを叩く音が頭上から聞こえてくる。


「お前さァ、この資料今日までに直しとけって言ったよなァ? 出来てねぇじゃん」
「す、すみませ……」
「すいませんで済むなら警察は要らねぇんだよな〜」


的を射ているようでまるきりズレている言葉にも、口答えをしてはいけない。この会社ではそれが暗黙のルール。他の社員が気の毒そうに俺を横目で見ているのが手に取るように分かる。上司に睨まれて、すぐに見ていないフリをしていることも。


「困っちゃうなこういうの。どうしてくれんの? てかお前何歳よ?」
「25です」
「25でこれは無いでしょ! 俺がそのくらいの時はさぁ、上司の頼みは絶対に守ってたんだよ? なんで出来ないかなぁ? これだから最近の若い奴はさぁ、社会の厳しさってのが全くわかってないんだよなぁ! そもそも俺は───」


頭を下げる。大嫌いな上司の顔を見たくないから、ひたすら足元だけ見続ける。じっと耐えろ。言葉は全部飲み込め。伸ばされて擦られて色褪せた武勇伝なんて、聞いたところで無駄なんだから。


「───だからさぁ……おい聞いてんのか雨野ォ」
「は、はい」
「チッ。ったく、もっと誠意見せろよな……ほら、とっとと資料直せ」


小声で言えば全部聞こえないとでも思い込んでる奴の話は、聞くな。ミスをした奴には何をしてもいいと思い込んでる奴に資料を投げつけられても、何も言うな。耐えろ。耐えろ。

足元に散らばった資料を拾い集めて、もう一度頭を下げてから自分のデスクに戻る。同僚からの哀れみの視線には気づかないフリをして、席に座───


「怒られてやんの」
「………………」


出し掛けたイスを戻して、鞄の中から煙草の箱を掴み取り出す。そのまま早足でオフィスを出て、廊下を進んだ先にある喫煙室に入って扉を閉める。流石に出社してすぐ喫煙するヤベー奴は他にいないらしく、俺以外には誰もいない。

確認したところで後ろを振り向いて睨みを効かせれば、そこにいる天使は宙を飛びながら、小馬鹿にするようにニマニマ笑っていた。


「なんでついてくんだよ」
「見てないところで自殺図られたら止められねえからだよ。流石の俺も無理」
「だからって」
「安心しろよ、俺の姿はおまえ以外には見えないらしいから」
「そういう問題じゃ……!」


言い返そうと思ったが、なんだか不毛な会話をしている気がしたからやめた。代わりに煙草に火をつけて煙を顔に吹きつけてやれば、天使は露骨に嫌そうな顔をして咳き込んだ。


「やめろ! 俺それ苦手なんだよ!」
「あっそ」
「おまえさぁ、これから一年の付き合いになる天使だぞ相手は。もうちょっと仲良くしようとか思わな」
「思わねぇよ」


食い気味に答えると、天使は言葉を詰まらせた。目を見開いてこちらを見つめる姿を一瞥し、煙で肺を満たし、腹に溜まったドロついた感情ごと吐き出す。


「本当なら俺は昨日死ねたんだ」


クソ上司の顔を見ることもなければ、頭を下げることもなかった。どうせ死ぬんだからと放っておいた資料を投げつけられることもなかったんだ。昨日死ねていれば、もうこんな思いせずに済んでいたんだ。


「なのにお前が邪魔した。それなのに仲良くしようなんざ、頭おかしいだろ」
「それは、」
「俺ら人間が死にまくってるせいだって? どうでもいいわそんなこと。俺は死ねてないんだよ。今すぐ死にたいのに」
「いま死んだらダメだって昨日説明したろ。おまえの都合を押し付けんな」
「それだってお前の都合じゃねぇか」


『全てが無に帰す』の『全て』にあの上司が入ってるなら、それこそ俺の本望だよ。なのにどうしてその他の『全て』のために俺が我慢しなきゃならない?
煙草の煙でも覆い隠せないほど肥大化したこの負担を、どうして抱え続けなきゃならない?


「こんな事になるくらいなら、もっと早く死ねばよかった」
「………………」


煙交じりに呟くと、天使は完全に押し黙った。けれど言い勝ったからといって得られるものはなにもなくて、ただただ虚しさだけが充満していくばかり。……なんかムキになったのが馬鹿らしくなってきた。


「バカかよ」


突然落とされた声に驚いて振り向けば、天使は真面目な顔をして俺を見ていた。


「俺に八つ当たりすんな。恨むなら死ななかった過去の自分を恨め。それか、生きる道を選び続けた過去の自分に感謝しとけ」
「はっ? ……あっ、こらお前!」


油断している隙に煙草を取り上げられ、ジュッと火を消される。まだちょびっとしか焦げていない煙草が捨てられるのを見て手を伸ばせば、逆にその腕を掴まれた。


「死ぬな、雨野」
「ッ、」


真っ直ぐと、淀みなく。真正面からそう言われて、脳を揺らされる。不意に感じた不思議な感覚は次の瞬間にはもう消え失せていたが、それでも俺は、その手を振り解けなかった。



..



あま。あまのん。あまあま。あまっぺ。


「どれがいい?」
「それ今じゃないとダメか??」


同日正午。気晴らしに会社敷地内の中庭でコンビニのおにぎりを頬張っていると、天使はふよふよと俺の頭上あたりを飛び回りながら尋ねてきた。それもさっきからしきりに。

どうやら俺と仲良くなるため、いい感じのあだ名を決めたいようだ。仕事中に俺のスマホを触っていたから後で確認したら、検索サイトの履歴に『人間 仲良くなるには』『友達 仲良くなる方法』などが残っていたので多分そう。いや絶対そうだ。違いない。


「あっ、あまぽよはどうだ?」
「普通に雨野でいいよ。この歳になってそんなあだ名はキツい」
「つまんねー男」
「おもしれー女みたいに言うな」


……そういえば、周りからは天使の姿は見えてないんだっけ。だとしたら今の俺、相当ヤバい奴だよな。誰もいない場所でよかった。

そう思う俺の隣で、「アマノ」と確かめるように何度も声に出す天使。心底つまらなさそうな表情なのは気に食わないが、納得してくれたようで何よりだ。


「お前は?」
「なにが?」
「なにがって、お前の名前だよ」


それこそ天使なら、ラファエルとかミカエルみたいな名前だったりして。それか一周回ってサタンとかもあり得る。この見た目にこの性格なら存分にあり得る。

考察しながら返答を待つ間、天使はゆっくりと首を傾げていた。なにか言い方を間違えたかと思っていると、ソイツは少し躊躇うように間を置いてようやく口を開いた。


「10427071番」
「はっ?」
「だから、10427071番」
「はっ??」


どうやら俺の耳がおかしくなったらしい。おにぎりを食べるのも忘れて聞き返せば、天使は隣に座って足を組んで言う。


「俺みたいな下級天使は名前がないんだよ。会長様とか会長補佐様とか、お上の天使は名前があるみたいだけど、それ以外は識別番号だけ」
「えっ、じゃあどうやって呼び合ってるんだよ。大変だろ絶対」
「大変もなにも、そもそも名前を呼ぶことが無いから。あるとすれば『おい』とか『そこの』とか。中には律儀に番号を覚えてるヤツもいるらしいけど、俺は絶対無理」


天使はそう言うと、「そういうわけだから呼び名はどうでもいいよ」と付け足した。

なんだか意外なような、意外じゃないような。退屈そうにどこか遠くを眺めているその横顔を、俺はただじっと見つめることしかできなくて。


「───アマツカ」


気づけば、そう口にしていた。慌てて口を閉じたのと、天使が「は?」とこちらを振り向いたのはほとんど同時で、しばらく沈黙が流れる。


「アマツカ? なにそれ」
「……名前」
「名前……」
「今なんとなく頭に浮かんだんだよ」


なんだか気恥ずかしくてそっぽを向けば、天使は組んでいた足を戻して「あ」と声を零す。


「まさか『天使アマツカ』ってこと?」
「………………」
「つまんねー男……」
「おもしれー女みたいに言うな……」


頭を抱えていれば、ソイツは不意に立ち上がり、釣られて顔を上げる。


「安直すぎてつまんねーけど、いいじゃん。アマツカ。識別番号よりずっと呼びやすい」


そう言った天使───アマツカは、嬉しそうに笑っていて。それがなんか意外で、ちょっとだけ眩しくて。なんと言い返すべきか一瞬分からなくなって、ややあってから「そうか」と呟くしかできなかったけれど。それでも何故だか、悪い気はしていなかった。


───遠くから誰かがこちらを見ていたことには、気がつけなかった。

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