『 天使。 』-第2話


「なあアマノ、辞めれば?」


朝起きて、ご飯を食べて、支度をして、電車に乗って。憂鬱な朝をなんとか乗り切ろうと懸命に耐える俺の耳元で、アマツカがそう囁いてくる。

しつこく囁いてくるせいですっかり聞き慣れてしまったが、それでも苛立たないわけではない。日が経つにつれ本格的に暑くなってきた気候のせいで、少しピリピリしているということもあるが。


「辞めちまえよ、あんな会社。そのままじゃロクな人生にならないぞ」
「辞められるならとっくに辞めてるよ」


この会話も何度目か分からない。アマツカは「天使のお告げだぞ」と上から言ってくるが、俺からすれば悪魔の囁きでしかない。そもそも天使は自分から「天使のお告げだぞ」なんて言わないだろ。……そう返したら「おまえらが夢見すぎ」って睨まれるんだろうな。

でもだからといって、そんな簡単に辞められるほど世の中あまくはないんだ。

世間一般では『ブラック企業』と呼ばれる部類に入るであろううちの会社は、地位が高くなるにつれて性根が腐っていくシステムらしく、上司にまともな思考回路の人間はいない。

体調を崩して休もうものなら鬼のように電話とメールが来て、早く出社するよう急かされる。
それでも休めば、次の日からしばらく奴隷のようにこき使われる。残業なんて当たり前。
定時に帰ろうとすれば睨まれるのに、上司たちはきっちり定時に帰っていくというクソみたいな規則。

そんなところで働き続けたいと思うわけもなく、俺が入社する前には退職届を出す人もいたそうだ。しかし上司は「今忙しい」だの「後にしてくれるか」だのほざいては一向に受理せず、挙げ句の果てには逆ギレして、罵詈雑言を浴びせながら届をビリビリに引き裂いた。結局退職はできず、その社員は働き続けたという。過労死してしまうまで、ずっと。

それ以来、退職届を出す者はいなくなった。どうせ死ぬまで逃げられないのなら、もう抵抗をするのも無意味なのではないか───それが俺含め全員の本音だ。

しかも俺に限っては死ぬことも許されないみたいだし、それならなおのこと辞められない。結局のところ、生きるに必要なのは安定した給料なんだ。


「人間って大変だな」
「天使には分からないだろうよ」


そんな会話をしながら、真っ暗なオフィスでパソコンと睨み合う。本日も上司に仕事を押し付けられて残業まっしぐらだが、もはや怨みすら湧かなくなった。


「雨野くん、」
「へっ!?」


突然声を掛けられて、思わず間抜けな声を上げる。暗闇の中にゆらりと立っているその様に幽霊かと思ったが、すぐに思い違いだったと悟る。


「み、瑞雲みずもさん……」
「あはは、驚かせちゃった? ごめんごめん」


瑞雲由紀みずも ゆきさん。丸い眼鏡が特徴の、俺より一個上の先輩。

いつも明るくハキハキとしている、まさに廃れた荒地のような会社に咲く一輪の花。あの性悪上司たちも彼女のことは気に入っているようで、お菓子やアクセサリーなどをプレゼントしているところを何度か見たことがある。


「もう夜だし、なんだか幽霊でも出てきちゃいそうだよね。でも大丈夫! なぜならここに、私が悪霊退散の念を込めた缶コーヒーがあるからです! ささ、どうぞ〜」
「あ、ありがとうございます」


差し出されたコーヒーはひんやりとしていて、指先から熱とともに疲れも引いていくような心地がする。


「うわ出たよ幽霊話。死んだ生命は直ちに冥界へ送られるから、この世に留まってる生命なんて一個も存在しないのに……ちべたッ!!」


きっと『天使』という言葉は瑞雲さんのような人を指すのであって、束の間の癒しに水を差してくるコイツはただのクソ悪魔だ。

黙らせるために缶を押しつけると、アマツカことクソ悪魔は凄まじい勢いで飛び退いた。できればそのまま冥界に退散してくれ。


「雨野くん、今日このまま残業?」
「はい」
「じゃあ私も一緒にいいかな? 明日の会議の資料、まだ終わってないんだ」
「ぜ、ぜひ……!」


正直このままアマツカの囁きを躱しながら仕事するのはキツかったので、とても助かる。瑞雲さんが近くにいてくれれば、アマツカも空気を読んで黙っていてくれるだろう。

ほくそ笑むのをバレないようごまかしつつ、アイスコーヒーを片手にキーボードを打つ。するとアマツカは退屈そうに体育座りをして、デスクに寄りかかってきた。そのまま数十分ほど黙々と作業していると、瑞雲さんが「ん〜っ!」と声をあげながら伸びをした。少し天井を見上げていたかと思えば、鞄に荷物を入れていく。


「瑞雲さん、終わったんですか?」
「んー? ううん、まだなんだけど。あとは家でも出来ちゃうから持ち帰ろうかなって。雨野くんはまだかかりそう? あ、よかったら手伝おうか?」
「いや、大丈夫っす」


時計はもうじき23時になろうとしていた。流石に引き止めるわけにはいかない。

瑞雲さんは「そっか」と言うと、鞄を持って立ち上がった。「電気点けてく?」「大丈夫です」と一言会話をすると、瑞雲さんは扉の前で立ち止まってこちらを振り向いた。


「ありがとう、雨野くん。じゃあお先です!」
「お疲れ様です」


ぱたぱたと遠ざかっていく足音を聞きながら、椅子にもたれて息を吐く。すると足音でカタリと音がして、見るとアマツカがいた。そういえば居たな。忘れてた。


「おまえ、俺のこと忘れてたって思ってるだろ」
「エスパーかよ……」
「そんなにあの人間が好きなのか?」
「はっ!?」


驚いた拍子に、腕がぶつかって缶コーヒーが倒れる。幸い飲み干していたためこぼれなかった……が、しかし今はそれどころではない。


「お前そういう話できるタイプなんだな……」
「おまえ俺をなんだと思ってんだ」


意外だ。たぶん今年一の意外だ。そう思いながら、青白く光るパソコンに視線を戻す。


「好きっていうか、なんていうか……やっぱりデキる人は何もかも違うなとは思うよ」


同じ環境で働いているはずなのに、瑞雲さんは全くへこたれない。色んな仕事をバリバリこなして、しかも他人に気を配れるほどの余裕まで持っている。愚痴を言っているところなんて見たことないし、毎日にこにことしていて……本当に俺とは何もかも違う。


「俺も瑞雲さんみたいだったら、こんな苦労せずに済んだんだろうな……」
「それは無いな」
「確かに俺とあの人は天と地ほどの差があるけど、そんな食い気味に言うことないだろ」
「そういう意味じゃねえ」


アマツカは珍しく真面目なトーンでそう言うと、「よっ」と呟いて立ち上がり、俺を振り向いた。


「あの人間、死ぬ気だったぞ」


一瞬、頭が追いつかなかった。ぽかんと見上げれば、アマツカは「だから」と呆れたような表情を浮かべてもう一度言った。「あのミズモって人間、死ぬ気だったぞ」と。


「……はっ? 何言ってんだお前、そんなこと」
「ある。目を見れば分かる。おまえと似てた。あれは間違いなく自殺する奴の目だよ。天と地ほどの差なんてねえ、おまえらどっちも地だ」


瑞雲さんが、死ぬ気だった? 信じられない。だってあの瑞雲さんが、そんなこと。
けれどアマツカの目はいつになく本気で、嘘をついている様子は微塵も感じられなかった。


「い、今すぐ止めないと!」
「なんて言って止めるつもりだ? 不審がられて振り払われて終わりだろ」
「……確かに……」


確かに、「瑞雲さんが死ぬつもりだって天使が言ってたので止めに来ました」なんて言ったところで止められるわけがない。むしろそれで止まる方が奇跡だ。

持ち上げかけた腰を下ろすと、椅子がギッと小さく音を立てた。どうすべきか分からずに黙っていると、アマツカも口を閉ざしたまま窓の外へ目を向けた。しばらく夜空を眺めていたかと思えば、小さく息を吐いて俺の近くへ歩み寄ってくる。


「まあ大丈夫だろ。おまえが気にする必要はない」
「このまま放っといたら、瑞雲さんは自殺するかもしれないんだろ? それなのに気にするなとか無理に決まってる」
「無理だろうが無理じゃなかろうが、おまえに出来ることはないってば」
「だとしても、死ぬかもしれない人を放っておけるわけないだろ!」


デスクを叩いて立ち上がり、アマツカを睨む。返ってきたのは呆れたような溜息と、「ったくも〜」と半ばヤケになっている声で。


「分かったよ、そんなに言うならやってみろよ。どうなろうが俺は知らないし、なんなら俺はちゃんと止めたからな? ほんっとに、どうなっても知らないぞ!?」
「はいはいそうかよ」


瑞雲さんのような善人が死んでいいわけない。
死んでいいのは、俺みたいな人間だけでいいんだ。

固い決意を秘めながら、この先の作戦について思案しはじめていた。

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